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『なるほど…、たしかに大きい人だな…』
鈴木の相談から1週間後、教室入口から機嫌良く歩いてくる梶山の姿があった。
「やぁ、どうも!なんだか無理を言ってしまったようで申し訳ないですな、ははは!梶山と申します。」
梶山は申し分無い声量とベースの音色を湛えた声で、緊張気味の笑顔で並ぶ鈴木と、穏やかに微笑むサトルを交互に見ながら近づき、最後はサトルの目の前に立って挨拶をした。
話に聞いていたよりはフレンドリーな様子だが、眼光の鋭さはサトルのイメージ通りだった。
沢田はというと、受付ブースから冷ややかな目線でこちらを見ている。どうやら出迎えに付き合うのは拒否したようである。
「白髪先生、ですな?」
175センチのサトルが見上げるほどの身長と、サトルの2倍はあろうかという身体の厚みを持つ梶山だが、ただの肥満には見えない姿勢の良さと鋭い眼光が、マフィアのボスのような威圧感を醸し出している。
「はじめまして、白髪サトルと申します」
「知り合いから聞いておりますよ、お若いのに様々な学問に通じていて、声や歌についての博士のような先生だと。どうかよろしくお願いします」
「いえ…声について知る事が増える度に、わからない事も増えていきます。ですので、私はまだまだ足りない講師です。まずは体験レッスンで梶山さんの声をお聞かせいただいて、本当に期間内でお応えできるかを判断させていただければと思います」
どうやら体験レッスンで測られるのは自分の方かと察知した梶山の表情が硬さを帯びたと同時に、その様子を見た鈴木は自身の肝が冷える音がした。
「なるほど。確かにそうですな。レッスンしても3ヶ月で成果が出なければやる意味もない。では、白髪先生にしっかりと見ていただき、可能性の有無を教えていただきたい!」
愛想笑いが消えて憮然とした表情に変わった梶山は、鈴木に目で案内を促してレッスン室へと足早に歩きはじめた。その後ろ姿を見ながらサトルは、まずはこれで良し、と思ったところで背中から囁くような声がした。
「ヒュ〜、白髪先生、なかなか尖った返しでしたねー、鈴木店長の髪は数本抜けたでしょうけど、私的にはグッジョブサトルって感じです!」
スパイのように音もなく後ろに回っていた沢田が、胸がスッとしたわ!という表情で言った。
「はは…いつのまに…まぁ、沢田ちゃんの言いたい事はわかるけど、僕はやり返す意味ではなくて、今からの準備のために言っただけだよ」
「えっ…?準備…?」
サトルはふっと微笑んで、2人の後を追うように歩きはじめた。
大人の音楽教室は、音楽の楽しさや学びを通して、人生の余暇を充実させたい大人達の趣味の場である。
従って体験レッスンはできるだけフラットな状態で参加してもらい、楽しめる場であるかどうかを判断してもらう事が大切であり、その視点で言えば梶山に向けたサトルの発言は大いにNGである。
しかし、今回は目的がより明確で具体的であること、レッスン回数に限りがあること、そして何より、成果を出す事が絶対条件であること、という3点において言えば、時折サトルが請け負う芸能事務所の案件に近い。
その場合、レッスンを受ける側にもある程度の覚悟と緊張感が無いと間に合わない可能性が出てくる。
その意味でも今日の無料体験レッスンはとても重要な時間なのだが、教室に入ってきた時の梶山の様子に若干、物見遊山の延長のような空気をサトルは感じたため、あえて気を引き締めてもらえるような言葉を選んだのである。
いつものレッスン室が少し狭く感じるような堂々とした体躯の梶山が、上着を脱いで待ち構えていた。サトルの思惑通り、程よく緊張感を含んだ表情で、
「では!よろしくお願いします!!」
と、まるで武道の試合でも始めんばかりの気合いの入った声をサトルに発した。
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
サトルはその声を、まるでそよ風が通りすぎたくらいの微笑みで受け流し、穏やかな声で体験レッスンの開始を告げた。