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「ちょっと〜白髪先生〜!いつも言ってるでしょう?連絡事項はちゃんとメモしておいてくださいって!なんで忘れるクセがあるのにメモしないかなぁ〜」
「……ごめんなさい」
「うん!すぐ謝るのは偉い!偉いんだけども〜、ごめんで済んだら警察は要らないんですよ!まったく〜…」
音楽教室の事務室が、まるで警察署の取調室に変わったかのような沢田のしかめっつらと、相談の約束をすっかり忘れ、さらに面談時間を過ぎるほどにレッスンが押してしまったバツの悪い表情のサトルがにらめっこするかのように向き合っていた。
「ま、まぁまぁ、沢田さん!白髪先生もこうして謝られておられるんだから、もういいじゃないですか?」
微妙に漂う険悪な空気を和ませようと、鈴木がわざと明るい声で割って入る。
「店長がそうやって甘やかすからいつまで経ってもメモ取らないんですよ、この人は!ほんとにもう!」
まだ言い足りなそうな沢田を横目に、鈴木はサトルの方へ身体を向け直して、眉と声をひそめながら、
「それでですね、白髪先生、ご相談についてなのですが……」
と、静かに語り始めた……。
「だから!!3ヶ月でさっき言った曲をちゃんと歌えるようにしてくれって言ってるんだ!ここの歌の先生ならできるんじゃないのか!?」
およそ1週間前、教室受付のそばにあるロビーテーブルで、梶山隆明はイライラを隠さない声音で鈴木に問い詰めた。
「その〜、梶山様の仰られている先生というのは、おそらく白髪先生の事だと思うのですが、いかがでしょう?」
「そう、たしか、そんな苗字だったな。変な苗字だと思ったので覚えてる。声や歌の事ならなんでもわかる先生だって聞いたので、わざわざ足を運んだんだ!」
「なるほど。たしかに白髪先生なら梶山様のご要望にも必ずやお応えできると私共も思っております。それで、そのぅ…失礼ですが、そのお知り合いの方というのは、どなた様でございましょう?当教室の会員の方でしょうか?」
「ん?…なんでそんな事まで話さなきゃならないんだ!そんな事はどうでもいいだろう!その先生にレッスンしてもらえるのか、どうなんだ?!」
通常、希望するレッスンコースが明確に決まっているお客様に対しては、教室受付はこんな質問や話はしない。
体験レッスン用の簡単なアンケートに記入してもらい、日程予約ができれば申し込み完了である。
レッスンの詳細な内容は、無料体験レッスンで講師から直接感じてもらう事が大切なので、先入観を抱かせるような口頭説明は逆にしないものなのだが、来店時のやりとりから、これは厄介そうなお客様だと感じた鈴木は、梶山をロビーテーブルに誘い、レッスンの目的や希望を確認しようとした。
こういうタイプは始めてみて、思惑と違う内容だとなると、後々ややこしい事に発展するからである。
しかし、梶山の方は申し込みなんてすぐ済むだろうと思っていたため、入口で3〜4分待たされ、さらには目的や動機まで聞かれる事になるとは思わず、イライラのボルテージは上がりっぱなしとなっていた。
「はい、では、すぐに白髪先生の空き状況を確認いたしまして、また改めてこちらからご連絡させていただきます」
「なに?…空きが無いのか?じゃあなんだ?これだけ時間を取らせておいて、レッスンは受けられない可能性があるってことか!?」
梶山の怒りが爆発ギリギリだと感じた鈴木は咄嗟に、
「いえ!そうではございません。個人レッスンの枠はございますが、今はその時間帯が白髪先生の休憩時間となっておりまして、まずは先生の了解を取らないと体験レッスンを組む事はできないという事情がございまして…」
「ふざけるな!レッスンを受けさせないなんて許さんぞ!絶対にその講師に来月から枠を空けさせろ!絶対にだ!」
聞く耳は持たん、という意思を明確に表明するかのように席を立ち、捨て台詞を残しながら退店する梶山の姿を、鈴木は呆然としながら見送った……。
「……というわけなんです。白髪先生、どうしましょう…」
自身の失態を恥じるような、消え入りそうな声で鈴木はサトルに尋ねたが、先に沢田が反応した。
「別に店長が悪いわけじゃないですよ!そのお客さんがあまりに横柄すぎます!白髪先生、そんな人、レッスンする必要ないですからキッパリと断っちゃいましょう!」
事前に鈴木から聞いていた梶山の話を思い出し、時間に遅れたサトルへの不満も相まって鼻の穴が大いに広がった沢田が、今にも断りの電話を入れそうな勢いになっている。
「う〜ん…」
話の途中くらいから、ずっと考え事をするかのように、天井を見つめながら鈴木の話を聞いていたサトルは、ゆっくりと唸ってから鈴木の顔を見て、
「…なんで、3ヶ月なんでしょうね…?」
「え…?」
サトルの口からはまず、感想、もしくは拒否の言葉が出るだろうと待ち構えていた鈴木と沢田は、不意を突かれたようなサトルの疑問に、拍子抜けした顔になった。
「あと…今すぐ始めたい、というよりは始めなきゃいけない、って感じの切迫感ですよね?」
「た、たしかに…」
目の前の梶山に上手く対応しようと必死だった時には気づけなかった疑問に、鈴木は思わずうなづいた。
「いやいやいや!単純にせっかちなのと、歌を舐めてるだけじゃないですか?だって、3〜4分待たされただけで機嫌が悪くなるようなおじさん?おじいさん?いや、ジジイでしょ?」
「沢田さん!お客様の批判はダメです。そして、声が大きい!」
鈴木に静かにたしなめられた沢田は、ちぇ〜っと言いたそうな顔で下を向いた。
しかし、沢田が言う通り、歌を習いに来る人の中で、そういうタイプの人が一定数、存在する事は確かである。
まず音を出すこと自体が関門となるバイオリンやサックスなどと違って、歌は声帯や喉頭に異常がない限り、誰でも歌えるものであり、始めるハードルが最も低い楽器の一つである。
そのため、歌なんてすぐ歌えるようになるだろうとタカをくくって始め、すぐに考えが甘かった事に気づき、そこでようやく続けるか?辞めるか?という最初の関門に出会う事になるのである。
だが、サトルの中で出来上がりつつある梶山の印象は、なんとなく、そういうタイプではない気がしていた。
「鈴木店長、その、梶山さんが歌えるようになりたいという曲は何ですか?」
「あ!失礼しました!そうですよね、こちらです」
鈴木は、状況説明に気を取られ、肝心な資料を渡していなかった恥ずかしさを隠すように、やや慌て気味にファイルから譜面を取り出し、3人が目にできるテーブル中央に置いた。
その譜面を見て微かに眉が動いたサトルより早く、沢田が驚いて口を開いた。
「え〜!これ??名曲じゃないですか!そんなおっさんが?似合わない!いや!いや!私はイヤ!」
「沢田さん!別に梶山様が君に歌うわけじゃないでしょ!あと、声がでかいから!」
いい加減にしなさい!という表情で沢田を注意する鈴木の隣で、譜面を手に取ったサトルが一言、呟いた。
「SHE…ですか」