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ちょっと広めのカフェが開けそうなレッスン部屋に、鼓動と体温を上げる強めのドラムビート、腹腔の奥を蠢くようなベースライン、思わず踊りたくなるようなダンサブルなゴスペルミュージックが鳴り響いている。
開放的なその音楽に身を委ねて、15名くらいの大人達が、思い思いに身体を動かしながらエネルギッシュな歌声でハーモニーを奏でていた。
その歌声達の中央正面に、彼らに向き合うように立ちながらゴスペルコーラスの指導をするサトルの姿があった。昼の時間にも開講しているゴスペルレッスンである。
「皆さん、もう少し抑揚を大切にしましょう!他の人の抑揚も聞きながら、抑えるところも声を重ねる意識で!」
歌っている時の熱量を切らさないように注意しながら、合唱中に声かけをしていくのもサトルの手法の一つである。
このクラスは一人一人の声量はなかなかのもので迫力もあるのだが、フレーズ間の強弱意識が弱かったり、お互いの声を聞く意識や重ねる意識に希薄なところがある。
サトルは極力笑顔を崩さない表情で彼らの歌声を聞きながら、
『ん〜…まだ何人か、声を重ねるポイントがよくわかってないかな…』
と、心の中で呟いた。
「はい!迫力は申し分ないくらいに出てきましたね!とても良いと思います!それだけにもう少しハーモニーにまとまりが欲しいなぁと思いますので、一旦、今の歌を聞き直してみましょう!」
一曲歌い終わって、軽く肩で息をするほどに声を出し切り、満足そうな生徒達へ、労うような声音でサトルが伝えると、彼らはそれぞれのデバイスで録音した自分達の歌声を聞き始めた。
「わっ!ホントみんな、声、よく出てる!」
「ん〜、でも、少しうるさいかも…」
「あれー?もう少しうまくハモれてると思ったのに〜」
「なんか長い音が濁ってるよね?」
「語尾のところよね?」
と、おのおのが感想を漏らした。
講師の中にはレッスンを録音する事を良しとしない人も少なくないが、サトルはなるべく録音して聞き直す事を推奨している。一曲通して歌う時などは特にである。
自分達の歌声を録音して聞き直す事は料理で言う味見に似ている。一つの料理の味を良くしようとする時、味見もせずに作る事ばかりをしていれば、おそらく手順は速くなっても、味そのものは良くならないだろうとサトルは思っている。
「聞き直してみて、どう感じましたか?」
サトルはメンバーの誰にともなく尋ねると、このクラスのアルトパートのリーダーで、いかにも歌が好きそうな快活な印象を与える30代後半の主婦、秋山みどりが答えた。名前に合わせたようなグリーンのスカートに白のトップスが印象的なショートカットの女性である。
「うーん…、みんな音は間違ってないと思うんですけど、フレーズの真ん中や伸ばす音のところが綺麗なハーモニーになってない気がします…。歌ってる最中はイイ感じかなと思ったんですけど…」
彼女の周りにいるメンバー達も、うんうんと、少し不安げにうなづく。
「そうですね。お一人お一人の音と伴奏に大きなズレは無いと思いますし、強弱もだんだんと付いてきましたよ」
「じゃあ先生、綺麗にならないのは、なんでなんでしょう?」
「そうですね…ハーモニーが綺麗なゴスペルやコーラスのグループには、兄弟や家族での構成が多いという話を、皆さまはご存知ですか?」
みどりからクラス全員に向き合うように姿勢を変えなから、サトルは問いかけた。
「話す声の音域や話し方などは家族や兄弟間でも当然違ってきますけど、とてもわかりやすい共通点があります。それが〈頭や顎の骨格〉です」
生徒達は、突然、別の話が始まったかのような内容にも関わらず、ふむふむと熱心にサトルの話を聞き入りはじめ、中にはメモを用意する人まで出てくる。
「顎の骨格が近いという事は当然、口腔の形も近いという事になります」
「あっ!…。」
まるでサトルの言葉に身体が弾かれたかのように動いてから、みどりが声を挙げた。
「母音の形、ですか?」
サトルはその言葉に、ニコッと微笑み、
「御名答です。ハーモニーの美しさは語尾の音を伸ばす場面、母音の発声をしてる時に強く感じさせる事ができます。ここに皆さんそれぞれの母音、つまり口の形を合わせる意識を持つと、兄弟や家族とまではいかなくても、かなり響きが綺麗になっていきます」
「そうか…、少し前に母が体調を崩して、私が代わりにかかりつけの病院に電話したんですけど、すっかり母に間違われたんです。後でベテランの看護師さんに声、似てきたわねーって言われて…骨格…口の形…そういうことなんですね」
サトルとみどりのやりとりを聞く生徒達の表情からは、何か大きな謎解きを聞いたかのような、納得の呼吸が生まれ、それらが空間に満ちていく。
「では、ここからはパート内で2人1組になって、お互いの口や顔、歌っている時の動きや息継ぎの仕方などを合わせるようにして歌い、その後またパートナーを変えて歌うという練習をしていきましょう!お見合い歌唱です!」
はい!という返事をするやいなや、新たな意識ポイントを得た生徒達は嬉々として、おのおののパートナーを決め、歌う準備に入っていく。
意欲満々の生徒達の姿に、サトルは静かな心強さと喜びを感じながら、自分も彼らのエネルギーに負けないようにと、集中力を高めていった。
サトルはこの時にはもう、このレッスンに入る少し前、鈴木店長からあった、
「レッスン後に、ちょっとしたご相談のお時間をいただけますか?」
という申し出をすっかり忘れていた。レッスンに没頭しすぎると失念が増えるという、サトルの悪いクセである。