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「あ〜ダメだ!やっぱり調整できないわ。これだと他の日程出してもらわないとなんだけど、沖田先生、レスが遅いからなぁ」
受付ブースの裏にある小さな事務室で、パソコン画面のスタジオ管理表を睨みながら、沢田あかりはまいったなぁ、という表情で呟いた。
音楽教室の受付スタッフという仕事は、一見優雅で緩やかな印象が抱かれがちだが、その実はとんでもなく忙しい。特にこの池袋教室のように30を超えるレッスンコースがあるところなどはまさしく激務に値する。
15部屋ある各レッスン室の清掃や準備、備品管理などに始まり、月謝の入金管理に休会や退会の在籍状況の把握、各講師のスケジュール管理と生徒への連絡業務、生徒募集時期のキャンペーンやイベントの企画運営などなど、業務内容には枚挙に暇がないほどの項目が並ぶ。
生徒へのアテンドなどは、あくまで業務のほんの一部である。
「今日は他にもやる事盛りだくさんなのに、あ〜、もうめんどくさくなってきたーー!」
沢田の最後の言葉がひときわ大きく事務室に響いたとほぼ同時に、事務室のドアが開き、40代後半の男性が苦笑しながら入ってきて沢田に声をかける。
「沢田さん、声!全部受付まで聞こえてるよ!」
「あ、鈴木店長!ごめんなさい!つい…心の声が大きくなっちゃいました!」
「うん、心の声は普通聞こえないものなんだけどね。で、どうしたの?」
「あ、先月1回休講になった沖田先生のドラムレッスンがあって、それの振替希望日を沖田先生に出してもらったんですけど、全部、固定曜日と違う日でして…」
「ははぁ、なるほど。他の先生でスタジオが埋まってるから調整がつかない感じかぁ」
「そうなんですよー、基本的に同じ曜日での振替にして欲しいとはいつも伝えてるんですけど、沖田先生、月3回以外は行けない!忙しいから!の一点張りで…」
「先月の休講の理由はなんだっけ?」
「沖田先生の体調不良です」
「う〜ん…、それならこちらの都合に合わせてもらいたいもんだけどね…」
気苦労が多いのか、40代後半にしては少々薄くなりすぎた頭を掻きながら店長の鈴木は顔をしかめた。
「でも、沖田先生は講師歴30年の大ベテランですからね〜、白髪先生だったらこっちに合わせて!って言えますけど」
「ははは!それはきっと、昔から知ってる沢田さんだからだよ!私が赴任してきた一昨年には、白髪先生はこの教室でも生徒数ダントツのエース講師だったからね、今でもそんな風には言えないなぁ」
「え〜、鈴木店長なら大丈夫ですよ〜、白髪先生、すごく店長の事、頼りにしてるみたいですよ。しっかり仕事をされる方だねって前に言ってましたもん」
「えー!それは嬉しいお言葉だね〜、白髪先生に直接言われるよりもすごく嬉しい。うん、さすがは白髪先生!」
「えっ?…あっ!そういうこと?、むむむ、白髪め〜」
サトルのさりげない意図に気づいた沢田は『うらめしや〜』と言わんばかりの顔で唸った。
「ふふふ、でもそれだけ、同僚として沢田さんの事をしっかり理解して信頼してる証拠だよ。講師と受付サイドの関係とはそうありたいものだね」
鈴木は沢田の機嫌をとりなすように穏やかな声でフォローした。
「ま、その件は今度しっかりと本人に嫌味を言っておきます!んー、それより沖田先生の件、どうしようかなぁ」
「うん、私の方から沖田先生に伝えてみるかな、事情と道理でやんわりお願いしてみれば上手く行くかもしれないし、今後のためにも私から改めて言われれば、少し釘を刺すことにも繋がると思う」
「えっ!ホントですか?!なんか申し訳ないですけど、店長が仰ってくださるならすごく助かります!」
沢田は先ほどの表情が嘘のような明るい笑顔に変わり、頭を下げた。
「いつも沢田さんや前田さんには頑張ってもらってるし、たまには店長らしい事しないとね。沢田さん、今日、他にも仕事あるんでしょ?」
「えっ?、あ、そうだ!もうこんな時間!G部屋のレッスン準備しなきゃでした!行ってきます!」
時計を見て青ざめた沢田は脱兎の如く事務室を出て行った。
「慌てて転ばないようにねー」
もう聞こえないくらいの距離に遠ざかった沢田に軽く声を掛けて、鈴木がスタジオ管理表が映ったままのパソコンの前に座ろうとした、その時、
「鈴木店長、すいません。ちょっと電話が入ってる時に来店されたお客さまをお待たせしてるので、対応お願いできますか?」
受付に居た、もう1人のスタッフ、前田みはるが事務室のドアから顔を出して鈴木にお願いしに来た。
「はい、わかりましたー!すぐ行きますね!」
慌ただしく画面を閉じた鈴木が受付ブースへと急ぎ着くと、入口と受付の間くらいの所に恰幅の良い大柄な男性が立っていた。
年齢は60代半ばくらいであろうか、おそらくはどこかの社長か役員か、見るからに立派なスーツを着ていて、眼光も鋭く、姿勢も良い。そして、待たされる事にはあまり慣れていないようで、見るからにわかりやすく少しイライラしていた。
「いらっしゃいませ!大変お待たせして申し訳ございません。店長の鈴木と申します。」
鈴木は、イライラを刺激しない程度の快活な声と表情で話しかける。男性はその声へ顔を向けると、自分の相手はこいつか!と思わせんばかりに勢い良く近づき、
「遅い!いつまで待たせるんだ!」
「大変申し訳ございません」
後で前田に確認すると、お待たせしていたのは3〜4分程度だったらしいが、かなり気難しそうな気配を察知していた鈴木は即座に謝罪を繰り返した。
「まったく音楽教室というのは客商売のくせに優雅なもんだな。まぁ、いい。それより、ここに良い先生が居ると知り合いから聞いた。その先生にボーカルレッスンをお願いしたいんだが……」