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大人の音楽教室が展開するゴスペルをはじめとした合唱やコーラスのレッスンは90分〜120分の月2回形式が主流である。ひとクラスの平均人数は10〜15名くらいで、サトルは池袋含めて関東各地で15クラスを担当している。
これは1人の講師としてはかなり多い部類に入る。生徒の要望やクセに合わせて指導内容をカスタマイズしていく個人レッスンに比べて、グループレッスンはある程度、講師主体の講義と実践を促すワークショップ的な要素が毎回のレッスンに求められる。
音楽教室においては講師と生徒でも、相手はすべて30〜40代以上の習い事ができる余裕のある大人達である。会社では日々会議を重ねたり、営業の手法やプレゼンの資料をまとめたり、それなりの立場で仕事というものを遂行している。
当然ながら、講師やミュージシャンという仕事については詳しく知らなくても、業務内容であるレッスンの進め方や伝え方、受け答えの誠実さやわかりやすさ、人の見定め方については厳しくて当たり前だと考えなくてはならない。
そのため、サトルは1回のレッスン内容を必ず3回行うことを自分の責務としている。
1回目はテーマに向けた説明とトレーニング内容、パートの音取りと歌唱ニュアンスの伝達、そしてそれらの時間調節とイレギュラーな質問への想定を踏まえてイメージレッスンを行う。
2回目は実際のレッスン本番。ここで想定通りの展開と想定外の展開、様々な思惑との違いをたっぷり感じていく。
そして今から行う、マコトや疋田が邪魔しないようにしてくれている3回目のイメージレッスンによって、それらに改善の余地はなかったか?などを検討していく。
サトルはかれこれ十年近く、このルーティンを月2回15クラスに向けて行っている。労力としてはかなりのものだが、そのおかげもあってか合唱レッスンにおける指導力は、今では出張ワークショップの依頼が後を絶たないものとなっている。
サトルは決してワーカホリックの部類に入る人間ではない、どちらかと言えば楽をしたい怠惰な人間だと自覚しているし、生徒のためなら何でもできる!というほど情熱家でもない。
それでも、このルーティンを辞めようと思ったことがないのは、ひとえに伝える仕事という事への〈怖さ〉故なのだろう。
「はい、お待たせ!今日はスズキのお刺身よ〜」
雪の結晶が舞ったような模様の薄透明な器に、見るからにプリプリとした白身の切り身が並んでいる。二連の醤油皿には、甘めのさしみ醤油と紅葉おろしの入ったポン酢が用意されていた。。
「それと上善ね!スズキに合うと思うわよー。ゆっくり召し上がれ」
グラスの入った檜の枡に並々と注がれた上善が差し出された。浮かせたグラスの酒を少しだけ枡に返してから口元に近づけると、上善の柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。
待ちきれなかったかのようにほんの少し舌を濡らすと、香りを追い越すようにキリッとした味わいが口いっぱいに広がった。
サトルは途端に上機嫌になり、スズキにほんの少し刺身醤油をつけて口に運ぶ。見た目通りのプリプリの歯応えと、じんわりと広がる甘みは鮮度が良い証拠である。たまらずもう一口、上善を入れる。
「う〜ん……、美味しい」
サトル、至福の時間である。最初にこの店に入った時、マコトの美しさに少なからず魅了された事は間違いないが、この店の魅力は、いつでも旨い酒と肴を出してくれること、通いたくなる店の必須条件である。
「どう?美味しい?」
ふと気づくとマコトの大きな瞳がすぐ目の前に来ていた。わわわっ!と慌てたサトルを見て、マコトはケタケタ笑いながらカウンターの裏へ消えていった。
「まいったな…、はは」
サトルは苦笑しながらその後ろ姿を見送ったが、口元は大いに緩んでいる。やはり、サトルがこの店に通ってしまう最大の魅力は、旨い酒と肴ではないようである。