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 夜のゴスペルレッスンを終えて教室を出ると、池袋の街はすっかり繁華街の本領を発揮する時間となっており、明治通り沿いのドンキホーテを曲がり、東口五差路からサンシャイン方向へ抜ける道を眺めれば、その様相は一層濃くなる。


 すでに一軒目で飲みすぎたのであろう千鳥足のサラリーマン達や、合コンが盛り上がり、勢いそのままの大声で二軒目を探す若い男女のグループ、それらを少し離れた位置から虎視眈々と狙う違法な客引き達などなど…いかにも都会の喧騒という言葉がとてもしっくりくる風景が広がっている。


 その風景を背にして、サトルは五差路から南池袋方面に向かい、30mほど歩いた先の交差点を南池袋公園の方向へと曲がり、公園入り口の手前にある小さな路地へ入っていった。


 先ほどまでの喧騒が、まるで嘘だったかのような静かな路地の奥にひっそりと〈日本酒BAR マコト〉と書かれた看板が出ている。サトルはホッとしたように、少し軽やかな足取りで入り口まで向かい、そっとドアを開けた。


 品の良い木目基調のドアを開けると、昭和レトロな奥に長い空間が広がっていて、左手にグループや団体用の4人掛けボックスソファとテーブルが3つほど並び、右手にはこれまた奥へ伸びたL字カウンターとチェアが8席ほど並んでいる。いわゆる昔のスナックレイアウトそのままの居抜きの店だが、白と茶を基調とした内装と、ひけらかさないセンスの良さが感じられる調度品、そして、柔らかい暖色の照明が古臭さとは無縁のおしゃれな雰囲気を作り出している。


「あら、サトルちゃん、いらっしゃい。今日も定時出勤ね」


 穏やかで愛らしいメゾソプラノの音色と、深さと重さを感じさせるアルトの音色が同居したような魅力的な声が、常連が3人ほど並んだカウンターの中から聞こえてきた。


「マコトさん、こんばんは。あ、生ビールをお願いします」


 サトルは常連達に軽く微笑みながら会釈し、注文をしながら空いていたカウンターの席に着いた。


「はい、おしぼりね。ん?どうしたの?少し疲れてる?」


 サトルにおしぼりを渡しながら、マコトは怪訝な顔を近づけて、サトルの顔を覗き込む。


「いえいえいえ、まぁ、少し…、ははは」


 と、サトルは思わずドキッとして、背もたれの方へ咄嗟に身体を起こしながら答えた。


 日本酒BARマコトの店主である長瀬マコトは、一言で言って美人である。見た目は20代半ばくらいに見えるが、年齢はおそらく30代前半のサトルより上であろうと思わせる大人の色香が、声や言葉使いにそこはかとなく漂う。

 肩口までストレートに伸びた光沢とツヤのある黒髪と、日本人離れした彫りの深さ、そして意思の強さと聡明さを感じさせる瞳には、どこかオリエントな美しさを感じさせるため、サトルは心の中で勝手に『池袋のクレオパトラ』と命名している。


 この店に通い始めてもう5年ほどになるので、流石に顔を赤らめたりはしないが、それでもマコトに顔を近づけられたり、見つめられるとサトルは思わずおどおどしてしまうのである。サトルの照れを含んだ愛想笑いに、マコトは少し吹き出してから、


「やぁねー、サトルちゃん、いつまで経っても私に慣れてくれないんだから。別に取って食べたりしませんよー、はい、生ビールとお通し!あ、そうだ!サトルちゃん、今日は〈写楽しゃらく〉が入ってるわよ、飲む?」


「あ、どうもです。じゃあ、〈上善如水じょうぜんみずのごとし〉の後でください」

 

「ふふふ、そこは譲らないわよねー、まずは生ビール、次は上善、肴はお刺身で良いのかしら?」

 

「はい!お願いします。」


「了解!じゃあ、用意するから、サトルちゃんは気にせずやってていいわよー。ヒキちゃん、邪魔しちゃダメだからね」

 

「ははは、純情うぶで仕事熱心なサトルちゃんの邪魔なんかしないよ」


 ヒキちゃんと呼ばれた、いかにも管理職のサラリーマンという50代のでっぷりとした男が、やや心外そうな顔で笑いながら答えた。常連の一人、疋田ひきたである。サトルは、すいません、と小声で言い、カバンからノートパソコンを取り出して、いつもの作業のための整理に入っていった。


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