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「ふぅ…」
大人が通う音楽教室は、お月謝や施設費をしっかりと生徒から頂いているので、サロンロビーのコーヒーも無料とは思えないくらいしっかり美味しい。本来は生徒用なのだが、講師のサトルもちゃっかりその恩恵にあずかりつつ、ゆったりめのソファでひと休みするのが休憩時間の常となっている。
マンツーマンでの歌唱レッスンは、耳と目の深い集中力が特に必要となるため、終わった後の疲労感が大きい。できるだけ静かな場所で五感を穏やかにできる休憩は、必須ともいえる重要な時間である。しかし、そんな愛しい時間は、二口目のコーヒーが喉を通り過ぎる前に突然中断された。
「白髪先生〜♫〜、この曜日の、この時間はいつもここですね〜」
声を聞くだけで、その人の顔の骨格くらいはある程度わかるサトルでなくても、賑やかで騒がしい顔がすぐに浮かぶであろうチャキチャキした声が、後ろの方から聞こえてきたのである。サトルは口に残ったコーヒーをゆっくり飲み込みながら振り返り、
「いつもお疲れさま、沢田ちゃん。コーヒーは、まだ一杯目だよ」
音楽教室と生徒さんのためなら受付業務とコスト管理に命をかける女社畜(本人談)、沢田あかりは心外といった様子で、
「やだなぁ、そんな巡回してるみたいな言い方やめてくださいよ〜。サロンロビーで疲れを癒す色男を見に来ただけですよ」
「……色男???」
「個人レッスンの三澤さん、今日もご機嫌で帰って行かれましたよー、受付に寄って白髪先生のおかげで声が気持ちよく出るようになってきたわ〜って、もうベタ褒め」
「それのどこに、僕が色男と呼ばれる要素があるの?ちゃんと仕事してる先生ってだけでしょ?」
「またまたぁ!な〜に言ってるかなぁ、とぼけちゃって。三澤さん、3ヶ月前とは別人じゃないですか!来るたびにメイクもファッションも変わっていって、とってもお綺麗になられました!」
「それは三澤さんご自身が頑張られただけで、僕は関係ないでしょ?」
「最後にこうも言っておられました!『白髪先生ったら、まだ他人行儀なのよ!もっとお近づきになりたいから下の名前でお呼びになってって言ってるのに!でもまぁ、そこも可愛いんだけどね!』ですって!モテる男は大変ですね〜〜キャハハ!」
身振り手振りを交えた絶妙に上手い沢田のモノマネに、なんだか先ほどのため息の理由を見透かされた気がして、サトルは少々イラッとしたが、
「まぁ…そういう対象として見ていただけている事と、それがモチベーションの一つになってるって事は光栄だし、良いことではあるけどね」
と、貴重な休憩時間を沢田から取り戻すために、早く会話を終わらせようと努めて明るく返したが、
「あ!そう言えばこんな事もおっしゃってましたよ。『なかなか原曲のキーで歌わせてくれないのよねー、そんなに私の声って合ってないのかしら』ですって」
「いちいち三澤さんのモノマネしなくていいから……、でも、そうか、うーん、理由の説明はしてるんだけど、あまり伝わってないかぁ、まだまだだなぁ、僕も」
「まぁ、生徒さんのご不満や本音は受付に来るのがいつものことですからね〜、適度に聞き流しつつ、心に留めておいてくださいませ〜、あ、そろそろ先生、ゴスペルの時間ですよ!さぁ、頑張って〜!」
と、現れた時と同様のチャキチャキ声で、沢田は軽やかに受付ブースへと去っていった。その背中を見送りながらサトルは微笑みながら呟いた。
「……なるほど。今日は巡回ではなく、それを伝えに来てくれたのか」
沢田が言うとおり、生徒が講師に直接伝える不満や要望は、本当に言いたい事の半分くらいの重さである事がほとんどである。
すっかり商業化されたはずのカルチャースクールにおいても、日本人古来の気質に根付いた【徒弟制度に抗う事への忌避感】から、生徒が先生に物申すのは失礼である、という考え方がまだまだ日本のスタンダードだ。
その考え方自体はとても素敵な美意識の一つであり、サトルも基本的には肯定派ではあるが、それに乗っかりすぎて横暴になる講師や、萎縮しすぎて楽しめなくなる生徒が一定数出てしまう可能性がある事には強い抵抗がある。
そして、現時点でのそういった不具合を絶妙に調整してくれているのが、各教室で朗らかに佇み、生徒の本当の声を吸い上げたり、講師に適宜クギを刺したり、アドバイスができる、そんな優秀な受付スタッフ達なのである。ある意味で、講師達は受付スタッフによって守られているとも言えるだろう。先ほどのやりとりからもわかるように、沢田はこの教室において、その要とも言える存在である。
「沢田、ありがと」
垣間見えた同僚の頼れる力と気遣いに、ほのかな温かさと心強さをもらったサトルは思わずそう呟き、残りのコーヒーを飲もうとしてから、ハッとした。
「…休憩時間…終わってる……」