第9話
「お、お前!? 何故ここに!!」
思わぬ人物の登場に、マルデルが仰天の声を上げた。 月明かりに照らされたフランヴェル嬢の姿は幻想的で、夜の小道に神話の1ページを切り取ったような情景を描き出していたが、マルデルにとっては得体のしれない不気味な影でしかなかった。
「お前は、私の部下が捕まえたはず……」
掠れた声がかろうじてマルデルの口から漏れる。
「フラン! お前、無事だったのか!」
ガートンも驚いてフランヴェル嬢を見つめる。 それに応えるように、フランヴェル嬢は不敵な笑みを向けた。
「当然でしょ? 私を誰だと思っているのかしら……そんなことより、あなたは大丈夫? 身体中傷だらけじゃない」
「こ、こんくらい、大したことねーよ」
傷だらけの姿に気付いて心配そうな目を向けるフランヴェル嬢を見て、気はずかしそうに強がって顔を背けたが、痛みで小さくうめき声をあげた。
しばらく呆気にとられていたマルデルは、談笑する2人の様子を見て我に返り、再び怒鳴り声を上げ始めた。
「おい貴様! 質問に答えろ! 何故ここにいるんだ! 私の部下はどうした!!」
その声を聞いてマルデルのことを思い出したのか、フランヴェル嬢は顔を上げて、怒りに震えているマルデルに目を向けた。
「ああ、あなたの親愛なる付き人たちには、少しお灸を据えさせてもらったわ……だって、私のことを見るなりいきなり飛びかかってきて、バーの中で大暴れを始めたんですもの。 おかげで椅子の脚が折れたりグラスが割れたりで、店の中はめちゃくちゃよ…………余計なお世話かもしれないけれど、あなたの付き人たちにはもう少し礼儀の教育ってものををしてあげた方がいいと思うわ」
フランヴェル嬢は件の喧騒の際に折れた椅子の脚と思われる木の棒をくるくる回しながら、世間話をするような調子で言い切った。その態度を見てマルデルの怒りのボルテージはますます上がっていく。
「お灸を据えただと?……どこまでも生意気な小娘め……! お前たち! 小娘だからって容赦することはない! 捕まえろ!」
マルデルがガートンを囲んでいた取り巻きに号令をかける。 取り巻きたちは忠実な猟犬のように一斉に華奢な少女目掛けて飛びかかった。
「!! フラン! 逃げろ! 奴ら本気だ!!」
ガートンが慌ててフランヴェル嬢に声をかける。 しかし、フランヴェル嬢は細い木の棒をくるくる回すばかりで、その場から動こうとしなかった。
「どうした!? 怖気付いたのか! 今更後悔しても遅いぞ! ガハハハハハ……」
マルデルがフランヴェル嬢の様子を見て高笑いをあげる。男たちと少女の距離が目前となる。先頭の男の手が少女の肩に伸びる……
「ぐうぅっっ!」
次の瞬間、先頭の男の呻き声が周囲に響いた。男は鳩尾を抑えてその場にゆっくりとうずくまり、倒れ込んだ。 フランヴェル嬢が棒で男の鳩尾を突いたのだ。 その様子を見て、マルデルの笑顔が一瞬凍りつく。 後ろに続いていた男たちの動きも一瞬止まる。 しかし、マルデルはすぐに声を取り戻すと、男たちに命令した。
「お前たち、何を怯んでいる! 相手は女1人だぞ!」
その声を聞いて、男たちは気を取り直し再びフランヴェル嬢目掛けて飛びかかった。 しかし、フランヴェル嬢は軽やかな、まるで踊るようなステップで男たちの動きを躱しながら、木の棒1つで次々と男たちの突進を捌き、鋭く突いていき、十数秒後にはその場に立っているのはフランヴェル嬢1人になった。
その様子を見ていたマルデルは、空いた口が塞がらなくなっていた。 ガートンも驚いた様子で、ドレスについた砂煙を軽く払っているフランヴェル嬢に話しかけた。
「お、お前、一体どこでそんな技を身につけたんだ?」
「昔ね、お父様にしごかれたのよ。剣術は貴族の嗜みだって。もっとも、5年も前のことだから少し緊張はしたけれどね」
フランヴェル嬢はそう言いながら、爽やかな笑顔をガートンに向けた。 たった今複数人の大人の男相手に大立ち回りを演じたとは思えない、無邪気な少女の笑顔だった。マルデルはしばらく口をパクパクさせていたが、ようやく声を取り戻して叫んだ。
「……き、貴様は一体何者なんだ!!」
フランヴェル嬢はマルデルの方を振り向くと、一瞬きょとんとした顔を浮かべたが、すぐに納得した表情を浮かべた。
「ああ、そういえば自己紹介がまだだったわね。 私の名はフランヴェル・ジャン・エッドウォード。 ヴァンダイン地方を治めるエッドウォード伯爵家の一人娘よ」
フランヴェル嬢は軽く微笑みながら自己紹介する。 マルデルはしばらくポカンとした顔を浮かべていたが、徐々にワナワナと震え出した。
「訳の分からない御託を並べおって……! 人をからかうのもたいがいにしろ!!」
「そういえば、もう1つあなたに伝え忘れていたことがあったわ」
マルデルが飛ばした怒号などまるで聞こえなかったという風に、フランヴェル嬢が口を開いた。
「……私の執事を散々痛めつけたお返しがまだだったわね」
フランヴェル嬢が手元の棒を再びクルクルと回し始め、マルデルに近づいて行く。その顔からは、さっきまでのような無邪気な少女の面影は消え去っており、静かな怒りが滲んでいた。
「なっ! 何をする気だ!」
ただならぬ威圧感を感じ取ったマルデルは途端に震え出し、後ずさりを始めた。 フランヴェル嬢はマルデルの声など無視して一歩一歩進んでいく。 マルデルの威勢は一瞬で消え、泣きそうな顔になって、尻餅をついて懇願し始めた。
「ま、待て! か、勘弁してくれ! 奴をボコボコにしたのはワシの部下がやったことだ!」
「それはあなたが命令したことでしょう?」
フランヴェル嬢は冷たい声でマルデルを追い詰めていく。 マルデルは歯をガチガチ鳴らしながら必死に逃げようとする。 しかし、身体が上手く動かず、マルデルの目の前に木の棒の先端が突きつけられた。 何の変哲も無い棒切れが、マルデルの目には鋭く研ぎ澄まされた剣に映っていた。
「フラン! ちょっと待て!」
突然、ガートンの声が響いた。ガートンはゆっくりと立ち上がり、フランヴェル嬢の肩に手を置いた。
「ガートン? 急に立ち上がって、怪我は大丈夫なの?」
「ああ、こんくらいなんともねーさ。 それより、もう充分だ。こんな奴、お前が殴る価値もない」
「あなたがそう言うなら、いいのだけど……」
フランヴェル嬢は不思議そうな顔で、突きつけた棒をゆっくりと下ろした。マルデルはホッとして、ガートンに抱きつこうとした。
「ガートン! 君は何ていい奴なんだ! 助かっ……ごへあっっ!!」
しかし、マルデルの手がガートンの身体に触れる前に、ガートンの鉄拳がマルデルの顔面に突き刺さった。マルデルはそのまま3メートルほど吹っ飛ぶと、気を失った。
「……なんだ、マルデルを許した訳じゃなかったのね」
「俺が許したなんて言ったか? お前が殴る必要はない、って言ったんだよ」
「あら、そうだったかしら? まあいいわ。 とにかく、これで一件落着ね」
フランヴェル嬢はニッコリと笑って言うと、『ブルー・アップル』へ続く道を歩き出そうとした。その表情からは、さっきまでマルデルに向けていた怒りのオーラはすっかり消えていた。
「ああ、そうだな…………いや、まだだ」
ガートンも笑いながら後に続こうとしたが、途端に真剣な顔つきになった。フランヴェル嬢はそれを見て心配そうな顔をして、足を止める。
「……どうしたの?」
「俺は、お前に謝らなきゃならないことがある」
「…………謝る?……って……一体なんのこと?」
フランヴェル嬢は怪訝な表情でガートンの目を見つめた。
「ああ、俺はさっき、金を持って逃げようとしたんだ。 お前を裏切ってな。 それに、マルデルとの喧嘩に巻き込んだせいで、危険な目にも合わせちまった…………すまなかった」
ガートンは真剣な面持ちで、深く頭を下げた。フランヴェル嬢はしばらく黙っていたが、ゆっくりと口を開いた。
「……なんだ、そんなことね」
フランヴェル嬢はケロリとした表情でそれだけ言うと、再び歩き出そうとした。
「そんなことって……俺はお前を裏切ろうとしたんだぞ!」
軽蔑されると思っていたガートンは、予想外のリアクションに思わず声を荒げる。
「どうしたのよ、そんな大きな声出して……まあそうね、誰にだって、間違えることはあるわよ……ただ、同じミスは二度しないことね。 それが優秀な執事の条件よ」
フランヴェル嬢は最後に一言付け加えると、ゆっくりと歩き出した。
(こいつは、俺が裏切ろうとしたことを「ミス」の一言で片付けてしまうのか……)
ガートンはしばらく呆気に取られていたが、心の中で何かを決意すると、フランヴェル嬢の後を追って歩き出した。
(優秀な執事、か……)
フランヴェル嬢の言葉を心の中で反芻し、ガートンは小さな声で一度きりの誓いを呟いた。
「……どこまでも付いてくぜ、お嬢様」
ガートンの声が聞こえたのか、フランヴェル嬢がぴたっと足を止めて振り返る。
「ねえ、今何て言ったの? もう一回聞かせてくれない?」
「別に、何も言ってないぞ? ほら、早く帰ろうぜ」
「あ、待ってよ! 『お嬢様』って言わなかった!? お願い、もう1回だけ聞かせて!」
「うるせーな、言ってねーって!………」
草木も眠るサンエルムの夜。薄暗い路地は、満月と2人の明るい声で照らされていた。
第1章完結です!
ここまでお付き合いいただきありがとうございました!
第2章は近日公開予定です!!