第8話
『ブルー・アップル』で、フランヴェル嬢とマルデルの手下たちが対峙しているころ、ガートンは大きく膨らんだ麻袋を背負って夜道を1人歩いていた。 麻袋の中には、先程『ブルー・アップル』のテーブルに積まれていた34万ペインの札束が詰まっている。 そう、ガートンはフランヴェル嬢を騙して金を持ち逃げしていたのだ。 ガートンは歩きながら、誰も聞いていない言い訳を自分に向かって呟く。
「……考えてもみろ、この前は納得しちまったが、あいつが伯爵家の娘だなんていう確かな証拠は1つもないんだ。 それに、さっきのことだってそうだ。 自分が侯爵家のパーティに呼ばれてそこを抜け出してきたなんていう大嘘を、顔色1つ変えずに突き通すヤツだぞ。 今までの話が全部嘘だったとしても、何もおかしな話じゃねえ。 むしろ、最初の話も嘘だと考えるのが真っ当なんじゃねえか?……とにかく、たまたま手に入ったこの金を持って、さっさとおさらばしちまうのが1番賢いやり方ってもんだ。 あいつと関わっていても、ロクなことになりゃしねえだろう」
そう呟きながら、ガートンはグングン前へ進んでいく。 一歩一歩、早足で進んでいく。
しかし、徐々にその歩みが遅くなっていく。 一歩、一歩…………やがて、ついにその歩みが止まり、背負った麻袋を地面に下ろした。ガートンはうなだれて、大きく息を吐いた。
「…………何をやっているんだ、俺は…………」
大きな体に見合わない、小さな、小さな声がガートンの口から漏れた。
「……フランは見ず知らずの俺の話を素直に信じて、1人で戦ったじゃないか。 あのマルデルを相手に。自分の全財産をかけてまで。 それなのに、俺は何もしてやれなかった。 ただフランがポーカーをやってるのを離れたところから見てドギマギしてるだけで……アイツのことを、信じてやることもできなかった。 それなのに、アイツはまるで2人で掴み取った勝利のように、喜んでくれたんだ。 俺と一緒に。……それなのに、俺は……」
ガートンの目の奥に、熱いものが込み上げてきた。
「……チクショウ、情けねえ……」
ガートンはまた小さく呟くと、元来た道を振り返り、「ブルー・アップル」へ歩を進めようとした。しかし、次の瞬間、何者かの声がガートンに降りかかった。
「やあガートン! まさか、こんなところで会うとはな!」
「その声は……!?」
ガートンが振り返ると、そこに立っていたのはマルデルだった。先程の屈辱的な敗北は何処へやら、その顔には悪意に満ちた薄気味悪い笑顔が貼り付けられていた。
「お久しぶりだね、ガートン君。こんな月夜の晩に、一体何をしているのかな?」
マルデルはニンマリと悪趣味な笑顔を浮かべながら、ガートンに語りかけた。嫌に丁寧で親しげな口調が、ねっとりとガートンの皮膚に絡みつく。
「貴様、一体何の用だ!」
ガートンが怒鳴るようにあげた大声は、すっかり静まり返った夜の街に溶けていった。マルデルは落ち着き払った様子でチチっと指を振った。
「いやいや、私が用があるのは君ではない。君が抱えている袋の方だよ。……実はその中身は私のものなのだよ。返してもらえるかな?」
「ケッ……何か証拠でもあんのか? まさか、名前でも書いてあるっていうんじゃないだろうな?」
ガートンが威勢良く挑発する。しかし、マルデルはそれをさらりと受け流した。
「下手な芝居はやめるんだ、ガートン君。 私は知っているのだよ、君があの小娘と手を組んでいたということをね……」
「……仮にお前が言ってたことが正しかったとして、何の問題があるんだ? アイツがギャンブルに勝って、お前が負けた。ただそれだけのことだろう」
自分とフランヴェル嬢の繋がりを指摘されたガートンは一瞬怯んだが、すぐに威勢を取り戻した。しかし、マルデルも淀みなく話を続ける。
「いやいや、そんな単純なことじゃない。私は嵌められたのだよ。君たちにね。こんな卑怯な真似、許されるのだろうか?」
「テメエ、散々イカサマを仕掛けておいて……」
マルデルの理不尽な発言に、ついにガートンの怒りが頂点に達し、拳を振り上げ、マルデルめがけて飛びかかろうとした。その様子を見て、マルデルが慌てて口を回す。
「ちょ、ちょっと待った! 私に暴力を振るっていいとでも思っているのか!?あ、あの小娘がどうなってもいいのか!?」
「な……おい、どういうことだ!」
あと一歩で拳が届きそうというところで、ガートンが立ち止まる。 その顔には衝撃と動揺の色が浮かんでいた。 マルデルは慌てて後ずさりして距離を取ると、額をぬぐった。
「ふう……危ない危ない……どうもこうも、事前にあの小娘を捉えておいたのだよ。君たちが別れた後にね。 なんせ君は、困ったらすぐに暴力で解決しようとする男だ。 こうでもしないと、危なくて相手にしてられん。……まあともかく、そういうことだ。私に手をあげようものなら、あの小娘の無事は保証できないな……」
「クッ……卑怯な奴め……」
ガートンはギリリと歯をくいしばると、何とか踏み止まった。 マルデルはその様子を見て胸を撫で下ろすと、抵抗できないガートンを見て愉快そうに声を上げて笑い出した。
「ククク……ハッハッハッ……何とでも言うがいい!……さて、金は返してもらおうか」
「……いや、この金は渡すわけにはいかないな」
ガートンは一瞬黙ったが、すぐに口を開くとマルデルの命令を拒んだ。マルデルは腹立たしげに舌打ちをすると、引き連れている取り巻きたちに命令した。
「フンッ、我儘を言っていられるのも今のうちだ。お前たち、ガートンを袋叩きにしてやれ! ……おいガートン、抵抗したらどうなるか、分かっているだろうな……」
マルデルの命令を聞き、取り巻きの男たちが一斉にガートンを取り囲んで、攻撃を始めた。ガートンは麻袋を守るように覆いかぶさると、必死に男たちの攻撃に耐えた。その様子を見て、マルデルは満足気に笑みを浮かべる。
「いやあ、実にいい気分だ! 私に逆らうと、こういう目に合うんだ! 肝に命じておけ!」
マルデルの高笑いと、取り巻きがガートンを殴りつける音が夜の道にこだまする。 こんな夜更けに外を出歩いている人などいなかったし、もしいたとしても誰もガートンを助けようとはしないだろう。 それほどまでにマルデルはこの街で力を握っているのだ。
ガートンへの一方的な暴行はその後数分間続いたが、ガートンは決して麻袋を離そうとしなかった。マルデルも最初は楽しんでいたが、次第に耐え続けるガートンに苛立ち始め、ついに痺れを切らして声を荒げ始めた。
「ええい、お前たち! いつまでやってるんだ! 早く袋を取り上げんか!!」
「し、しかしマルデル様、この男、なかなかしぶとくて……」
取り巻きの男たちが焦って言い訳を並べる。 ガートンは既にボロボロで身体中痣や擦り傷だらけだったが、その目はまだ死んでおらず、近寄ってきたマルデルを睨みつけていた。
「チッ……使えんやつらだ……どけっ! ワシが始末を付ける!」
マルデルはそう言うと、懐から宝石でゴテゴテに装飾されたナイフを取り出した。
「さあ……どこから切り刻んでやろうか……」
マルデルが醜悪な笑みを浮かべながらガートンへと近づく。
「いいか、抵抗するんじゃないぞ……いつまで耐えられるかな?」
マルデルがナイフを高く振り上げ、ガートンめがけて振り下ろそうとしたその瞬間、夜道に鈴を鳴らすような声が響いた。
「貴方達、私の執事を随分可愛がってくれたようね……主人である私が、たっぷりお礼をしてあげるわ」
マルデルの動きがピタッと止まり、声の方を振り返る。
そこに立っていたのは、フランヴェル・ジャン・エッドウォード 伯爵令嬢だった。