第6話
数分後、マルデルはロックグラスを片手にフランヴェル嬢が待つテーブルへと戻ってきた。 その表情からは先程までの焦燥は消え去っており、席に着くなりロックグラスの中身を半分ほど一気に喉に流し込んだ。 一方のフランヴェル嬢はカードを伏せて置いて、頬杖をつきながらオレンジジュースをストローで飲んでいた。
「やあやあ、すっかりお待たせしてしまいましたな。それでは再開しましょうか!」
マルデルは陽気に言うと、自身の手札に目を通した。手札には既に5のワンペアが揃っている。マルデルは軽く顎を撫でると、フランヴェル嬢の背後の男に鋭い視線を送った。
(さあ、手札を確認する時間は充分あっただろう!さっさとサインを送ってこい!)
……しかし、フランヴェル嬢の背後に立つ男は混乱した顔を浮かべているばかりで、一向にサインを送ってこなかった。
(……? どうした? 何故サインを送ってこない……?)
マルデルはまごついているだけの男に少し苛立ちながらも、グッとこらえてテーブルを指で叩き、もう一度サインを要求した。それでも男は困ったような表情を浮かべるばかりで、サインを送るそぶりは見られなかった。
(一体どういうつもりだ? ワシのいない間に何があったというのだ? まさか、手札を確認できなかったのか? 今は手札を伏せているようだが……)
「……手札の確認はもういいかしら? それじゃあ、私は3万ペインでコールするわね」
フランヴェル嬢の声で、マルデルの思考は一時停止を余儀なくされた。 新たに湧き上がった問題を整理するために、ロックグラスをもう一度口元へとはこび、少し目を瞑った。
(3万ペインだと? レートを上げてくるということは、手札に自信があるのか? 全く、アイツは何をやっているのだ……仕方がない、次のチャンスを待つか)
思考の整理を終え、ゆっくりと目を開けるとマルデルは慎重にコールした。
「……私も3万ペイン賭けよう。……さて、私は3枚、交換しようか……」
煮え切らない態度の男にイライラを募らせていたマルデルだったが、交換したカードを見た途端に思わず笑みが浮かびそうになった。5が1枚と2が2枚。フルハウスが完成している。
(きた! やはり、流れはワシに向いている!)
マルデルは湧き上がる歓喜の感情を隠しながら、目の前の少女の様子を見た。しかし、少女はカードを伏せたまま、動かそうとしなかった。 その憮然とした態度は、マルデルの喜びを徐々に溶かし、、代わりに懐疑の感情をもたげさせた。 マルデルは少々苛立ちながらも、平静さを保ちつつフランヴェル嬢を急かした。
「あのー、お嬢さん? どうされたのですかな? 早くカードを交換してくださらないと……」
「……交換はしないわ」
「……は?」
「カードの交換はしないと言っているの。……ルールは『カードの交換をしても良い』のであって、『カードの交換をしなければならない』ではないはずよ」
フランヴェル嬢の予想外の発言に、マルデルは度肝を抜かれた。
(こ、交換しないだと? そんなに強い役なのか? マズいぞ……カードを伏せさせたままではヤツの手札を確認することができない……いや、待てよ……ワシの手札は5のスリーカードと2のワンペアのフルハウス。この手札より強いのは6以上のフルハウスかフォーカード、ストレートフラッシュかロイヤルストレートフラッシュ、ジョーカーを含んだファイブカードだけだ。1発でそんな手札が揃うことがあるのか?……弱気になってはいかん。あんな小娘ごときに……)
「もう考える時間は終わりでいいかしら? ……私は5万、いや……7万賭けるわ」
「な、7万!?」
マルデルの額からどっと汗が溢れる。 思わずフランヴェル嬢の背後の男に視線を送る。しかし、男も驚きの表情でフランヴェル嬢を凝視するばかりで、マルデルの視線には気づかなかった。
(7万だと! こ、小癪な……ワシを舐めおって! ハッタリに決まっている……しかし、もし本当に強い役だったら……12万ペインが水の泡だ!……クッ……だが、そんなはず……)
マルデルの思考は堂々巡りを始め、脂汗が滲んでくる。その顔は険しく歪み、まるで溶けたソフトクリームのようだ。
「どうしたの? マルデルさん。 随分悩んでいるようだけど…… コール? オアフォールド?」
フランヴェル嬢の冷たい声が響き、マルデルは突然背中に冷水を浴びせられたようにビクッと身体を震わせた。顔を上げると、彼女と目が合った。その凛とした端正な顔立ちからは、なんの感情も読み取ることができなかった。
(チ、チクショウ! 何を考えているんだ! 素人が調子に乗りおって……!…………待てよ、そうだ、ヤツは素人なんだ。こんな高度な駆け引きを仕掛けてくるのか? やはり、本当にいい手が揃っているんじゃないのか?)
疑心暗鬼に陥ったマルデルは怯えるように再びフランヴェル嬢の顔に目をやる。彼女の表情には相変わらず感情が乗っていなかったが、マルデルと目が合うと微かに笑みを浮かべ、可愛らしい唇が妖しく揺れた。
「さあ……コール? オアフォールド?」
鈴を鳴らすような声が響き、その瞬間、マルデルの身体が凍りついた。彼の心の中で何かが崩れる音がした。それと同時に、口元からは静かな声が漏れた。
「……フォ、フォールド……」
その一言と共に、マルデルはがっくりと肩を落とし、手札がテーブルの上に散らばった。その手札を見て、フランヴェル嬢はクスクスと笑った。
「あら、フルハウスじゃない。 危なかったわ。 もしあなたがコールしていたら、きっと私の負けだったわね…………ほら、やっぱり」
フランヴェル嬢はそう言って自身の手札をひっくり返して見せた。 マルデルは身体をビクッと震わせ、顔を上げた。
「な、何だって!? ど、どういうことだ!? その言い方、まるで……」
マルデルの目に飛び込んできたのは、5枚のカードーー1つの役も揃っていない、フランヴェル嬢の手札だった。 あまりの衝撃に、マルデルは言葉を失い口をパクパクさせていた。 その声を引き取るように、フランヴェル嬢はのんびりと言い切った。
「そう、最初から手札を見ていなかったのよ。……せっかくだし、『スリル』を味わおうと思ってね。……貴方が迷っているのを見て、とってもドキドキしたわ」
「な……そんな……馬鹿な……」
マルデルは目を丸くして、口を大きく開いたまま、まるで魔法で銅像に変えられたようにその場に固まった。フランヴェル嬢はそんなマルデルの様子を見てクスクスと笑うと、オレンジジュースを一口飲んだ。
ガートンはそんな2人の席を見ながら、1人胸を撫で下ろしていた。
(全く、ヒヤヒヤさせやがって……マルデルが責を立っている間も一切手札を見ようともせず、のんびりしているもんだから、何度飛び出して行ってやろうと思ったことか…………だが、今の様子を見て分かったぞ。 恐らく、後ろの男がフランの手札を覗いて、サインを送ってたんだな。 だから前回と今回は勝てなかったんだ。…………しかし、このことをあいつは気付いているのか? それとも今回のは偶然だったんだろうか……)
ガートンが疑惑の目を向けながら必死に考えこんでいると、フランヴェル嬢は小さく息を吐いて、固まっているマルデルに声をかけた。
「さて、それじゃあ私はそろそろ帰ろうかしら。パーティももうすぐ終わる時間だし、抜け出したことがバレたらお父様に怒られちゃうわ」
フランヴェル嬢の言葉を聞いて、マルデルは我に帰ると慌てて言った。
「な、何ですって!?」
「だから、もう帰ろうかしらって。今日は楽しかった……」
フランヴェル嬢が別れの挨拶を言い終わる前に、マルデルが横槍を挟む。
「いやいやいや! ちょっと待ってください! それはあんまりだ!」
「何よ、ちょうど5戦終えたし、キリがいいでしょ?」
「それにしたって、急すぎる! こんな勝ち逃げみたいな真似、許しませんぞ! せめてあと1回!」
マルデルは泣きそうな顔でフランヴェル嬢の腕にしがみつき、必死に引き止める。 フランヴェル嬢は少し不快な表情を露わにしながらも、縋り付いてくる哀れな老人を邪険にするようなことはできないようだ。
「はあ……分かったわよ。あと1回だけね。だけど、本当にそれで終わりよ?」
その言葉を聞いて、マルデルは元気を取り戻したようだ。 パッと顔色を変えて胸をなでおろした。
「ええ、ええ! あと1回で結構です! ……いやそれにしても、驚きましたぞ! 突然帰るなんて言い出すものだから……」
マルデルは落ち着きを取り戻して席に座ると、ロックグラスの中身をグイッと煽った。一方この場で、マルデルと同じ感情を抱いていたものがいた。
(クソっ……何度びっくりさせれば気がすむんだ……ここまで4勝1敗とはいえ、まだ全然稼げてねえ。今切り上げたらせっかくの作戦が台無しだ。全く、こっちの心臓が持たねえぜ……)
ガートンが2人の様子を見ながらため息を漏らしていると、フランヴェル嬢が急かすようにテーブルを指で叩いた。
「……やるなら早く始めましょう。 時間が勿体無いわ」
お互いに2万ペインを卓上に置き、フランヴェル嬢がカードを切り始める。マルデルはギラギラとした目でその様子を見つめていた。カードを切り終わると、5枚づつカードを配り始めた。 その途中で、フランヴェル嬢はふと思い出したように手を止め、マルデルに話しかけた。
「そうだ、最後くらい、イカサマは無しでやりましょう。ほら、後ろの貴方も少し離れてくださらない?」
彼女は何気ない口調で言うと後ろを振り返り、立っていた男に話しかけた。 男は驚いた表情で固まったが、彼女が急かすように手を振るのでその表情のままゆっくりとその場を離れざるを得なかった。
「なっ!? い、イカサマだと!?」
あまりの衝撃にマルデルが顔面蒼白になりながら大声をあげる。 フランヴェル嬢は向き直ると、小さく笑って言った。
「まさか、私が気付いていないとでも思っていたの? 悪いけど、バレバレだったわよ」
少女はクスクス笑うと、ピーチカクテルをクイっと飲み干し、自分の手札に目を通し始めた。マルデルの顔は驚きから怒りの表情に変わり、血が上って熟したトマトのように真っ赤に染まっていた。
「あら、イカサマができないと自信が無いのかしら? それなら辞めてもいいのよ?」
フランヴェル嬢はからかうように言うと、またクスクスと愉快そうに笑った。
(こ、小娘が〜!! )
「辞めるわけないだろう! ワシのことを馬鹿にするのもいい加減にしろよ! 叩き潰してやる!」
「まあ、怖い怖い……うふふふ、それじゃあ始めましょうか」
今まで取り繕ってきたキャラクターをかなぐり捨て怒号をあげるマルデルを見て、フランヴェル嬢は楽しそうに言った。お互いカードを手に取り、じっくりと眺め始める。マルデルの手は怒りと緊張で微かに震えていた。
「ワシから賭けさせてもらうぞ……5万で、いこうか……」
「コール。私も5万賭けるわ」
「フン……」
(ワシの手札は……キングのワンペア、だけか……悪くはないが、さて、どうしたものか……)
マルデルは自身の脳細胞を総動員させて考える。 チラリとフランヴェル嬢の方に視線を送ると、切れ長の大きな瞳と目があった。彼女は涼しげな表情を浮かべ、マルデルに軽く笑いかけてきた。マルデルは小さく舌打ちすると、自身の手札に目を戻した。
「……よし、3枚交換しよう」
「私は……1枚、交換するわ」
お互い山札からカードを引き、確認する。マルデルの引いたカードはスペードのエースと8、そしてクラブのエースだった。エースとキングのツーペアだ。
(よし、悪くない役だ。……だが、ヤツが1枚しか交換しなかったのが引っかかる。ツーペア以上の役が揃っているということか?……チッ……何を考えているんだ……)
「……2回目のベットタイムだ。 ……5万で、コール」
マルデルは思考を巡らせながらコールを賭ける。フランヴェル嬢はその様子を見ると、小さく笑って呟いた。
「どこまでも小心者なのね……」
その声を聞いて、マルデルが激昂する。
「何だと!? 貴様、何が言いたい!」
「あら、聞こえちゃったかしら? ごめんなさいね。 ……でも、これが最後の勝負なのよ? スリルが楽しみたいとか言っておいて、結局最後まで5万ペインなのね」
「クッ……、生意気な口を聞きおって……いくらでもレイズすればいいだろう!」
マルデルが吐き捨てるように言い放つと、フランヴェル嬢はにこやかな表情を浮かべた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……10万ペイン、賭けさせてもらうわ。」
「な、10万だと!?」
マルデルはつい先ほどの怒りも忘れ、驚いて声を上げる。
「あら、ちょっと高かったかしら? もしかして、払えない、なんてことはないわよね?」
「チィッ!馬鹿にするのもいい加減にしろ! いいだろう、10万ペインで受けてやる!」
マルデルは再び怒りを取り戻すと、札束をテーブルに叩きつけた。それを見てフランヴェル嬢は満足げに笑うとテーブルに札束を置いた。
(よく考えろ、ここで勝てば今までの負けは全部チャラだ! ワシがこんな小娘相手に負けるはずがない! 頼む……!)
マルデルは必死の形相でフランヴェル嬢を睨みつける。
「それじゃあ、見てみましょうか……さあ、どうかしら……」
フランヴェル嬢はマルデルの視線など気にもかけず、大金がかかっている勝負であることを感じさせないような自然な動作で手札を表に向け、卓上に広げた。マルデルも同時に、手札を並べた。フランヴェル嬢の手札は……クイーンが2枚、ハートの3が1枚、ダイヤの2が1枚。そして……ジョーカーが1枚。
マルデルは口を大きく開けたまま固まった。そこから声にならない声が漏れる。
「な……そ、そんな……」
「マ、マルデル様!」
サングラスの男がマルデルの肩を揺する。しかし、マルデルはただゆらゆら揺れるばかりで何の反応も示さない。
「うふふ。 私の勝ちだったようね。それじゃあこのお金は貰っていくわ……さて、私はそろそろ帰らないと。 もしかしたら、今頃みんな私のことを探しているかも…………ねえ、聞いてるの?」
マルデルはすっかり放心状態で、周りの声など耳に入っていないようだった。フランヴェル嬢は小さくため息をつくと、彼を支えている男たちの方に顔を向けた。
「仕方ないわね……あなたたち、ご主人様に伝えて置いてくれる? 『今日はスリル満点の時間をどうもありがとう。蜂蜜酒もとても美味しかったわ。ご馳走様』って。 ……それでは、御機嫌よう」
彼女はそれだけ言い残すと、マルデルの取り巻きたちが引き止める間も無く貴族然とした、堂々の足取りでバーを後にした。
その様子を呆然と見ていたガートンは、我に帰ると慌てて支払いを済まし、バーを飛び出して夜の闇に消えた少女を追いかけていった。
次回投稿は2/20(水)を予定しております!