夢の世界 07
「私も、この家を出て、みんなの家に行こうと思っている頃だったかな。急に……」
キョウコは涙声になって、言葉がつまった。アイコはキョウコの言葉を待つべきだとも思ったが、気持ちが早ってしまった。
「ウソ……だよね?」
キョウコがうつむいて首を横に振るうと、涙が頬や顎を伝って濃い灰色のワンピースに落ちた。涙がぽたぽたと落ちて、黒いシミをいくつも作った。キョウコは袖で涙と鼻水をゴシゴシと拭いた。
「い、糸は突然切れたの。うぅっ……なんでかはわからない。でも怖いの。それに糸を繋ぐことはもうできないの」
繋ぐことができない? アイコはその答えを知っている。しかし信じたくない。だから残酷にも「なんで?」ときいてしまった。
「私の糸は迷い、そして寺院に向かった。でも…… でも……」
強い声でキョウコはうったえた。
「ユキノの糸は寺院には来ていなかったの!」
キョウコは顔を上げた。涙で長い睫が濡れていて、頬を濡らすほどに泣いていた。アイコはキョウコの言葉を信じられなかったし、信じたくもなかった。しかしキョウコの泣き顔を見て、もう二度と『ウソだよね?』とはきけなかった。
キョウコは頭痛に耐えるかのように額を押さえて、テーブルに肘を付けた。
「キョウコ?」
片手は頭に残したままに、救いを求めるように逆の手をアイコに向けた。アイコはその手を握った。
「ど、どうしたの?」
「まだ眠る時間じゃないのに、急に眠くなるの」
普通ではない。それはわかった。キョウコは額から手を離すと拳にして、自分の腿をドンドンと叩いた。アイコは急いで席を立って、キョウコの背に回り、叩いている手を掴んだ。それでもキョウコは叩こうとして手に力を込めた。
「だめだよ! 叩いたら痛いでしょ?」
キョウコは急に立ち上がろうとしたが、足がふらついてバランスを崩した。アイコは背中を支えた。キョウコは両手を胸元に戻したが、その手は震えていた。
「眠るのが怖いの」
アイコは震えるキョウコの両手を握った。
「何が怖いの?」
唇も震え、その震えはどんどん大きくなっていく。
「こ、怖い夢を見るの」
ガタガタと震える足では立っていられなくなり、ヨロヨロとキョウコの体が後に傾いた。アイコは急いで握っていた手を離して、キョウコの腰のあたりを抱いた。
「眠りたくない。眠りたくないの」
震えは小刻みに体をゆらすほどだ。キョウコは自分では立っていられない状態だったので、アイコは肩を貸してベッドまで運ぼうとした。するとキョウコは抱きついて、それに抵抗した。
「ベッドには行きたくないの。眠りたくないの。起きたままアイコと一緒にいたいの」
アイコは時計を見た。まだ三時前だ。アイコはあと一時間くらい起きていられる。
「キョウコが寝るまで一緒にいてあげるからね。怖い夢を見ないようにそばにいてあげるから」
キョウコの震えが少しだけ弱まった。
「本当?」
「うん。本当だよ」
キョウコの足の力は更に抜けて、アイコにのしかかる重さが増した。アイコは重心をさげて、肩を深く入れた。アイコも細身なので力があるわけでもない。ゆっくりとキョウコをベッドまで運んだ。ベッドまで歩む頃には、キョウコは何回もまばたきしていて、すぐにも寝てしまいそうだった。そのままベッドに寝かせようと思ったが、キョウコは横にはならずベッドの上に座った。首を大きく振って、目を覚まそうとしている。無理に起きていようとしてもこの世界では無意味だ。僧侶もそう言っていた。眠りにつく時が来てしまえば、どんなに抵抗しても眠ってしまう。なぜキョウコがこんなに寝ることを拒んでいるのかが気になった。ここ最近眠る時間が多くなってしまっているので、不安を感じているのかもしれない。今日のところはこのまま寝かして、明日にでも僧侶に相談すればいいだろうとアイコは思った。
「眠い時は眠ってしまった方がいいよ。早く眠れば明日の目覚めも良いと思うし。明日も寝る時間が多かったら僧侶様に相談しようよ」
アイコの言葉はキョウコの耳に届いているようだが、キョウコは「怖い夢を見たくないの」と繰り返す。震えはおさまっていないが会話はできそうだ。
「どんな夢を見るの?」
キョウコの綺麗な白い眉間にしわが寄った。
「私はある場所へ行くの。昔、私はそこに行くのが好きだった。でも、全ての人が私に冷たい視線を向けるの」
わかりにくい言葉があったので、「冷たい視線?」とアイコはきいた。
「私が話しかけても何も答えてくれなくて、私が落ち込むと、いやらしい笑顔を見せて…………」
キョウコはこめかみのあたりに手の平をあてて、大きく首を横に振った。
「私の本に落書きをしたり、破ったり………… カップに注いだ水を私にかけて喜んだりするの」
キョウコの話を聞いてもアイコには想像できなかった。それでも「ひどい夢」とつぶやいた。
「夢の中には悪魔しかいないの! だからもう眠りたくないの!」
また体が大きく震えだした。するとキョウコは自分の左手を噛もうとした。
「キョッ、キョウコ! ちょっと! 何やってるの!」
アイコはすぐにキョウコの顔を押して、キョウコの左手を手に取った。しかし一瞬噛んでしまった。アイコは急いで袖をめくった。服の上からだったので血は出ていないが、赤い歯型が残っていた。強く噛んだのだろう。
アイコはどうしていいかわからなかった。しかし自然と体が動いた。しっかりとキョウコを抱きしめていた。
「こんなことしないで!」
アイコの目から涙が落ちた。アイコの声が涙声だったので、キョウコもそれに気付いた。
「アイコ……泣かないで」
キョウコの体から力が抜けた。それと同時に体の震えもおさまった。アイコは背中をさすった。するとそれに答えるかのようにキョウコも背に手を回した。
「なんで、夢の世界にはアイコのような人がいないのかな…………」
その理由はアイコにもわからない。だから強く抱きしめることしかできなかった。
「なんで、あの悪魔達は悪魔になったのかな…………」
なんの根拠もないのだが、アイコは「今日は良い夢が見られるよ」と耳元でささやいた。キョウコはまた鼻でスゥッと息を吸った。
「アイコの臭いに包まれながら眠れば、良い夢が見れるかな?」
アイコは臭いをかがれても嫌がらすに、頬をキョウコの頬に合わせた。ゆっくりと大きくゆすった。
「きっと良い夢が見られるよ」
「…………うん」
二人の感情を一つにしてしまいたい。そう思うほどに、守ってあげたいと思った。
「おやすみ」
アイコが耳元でそうつぶやくと、背に回されていたキョウコの両手がフッと下がった。キョウコの体は脱力して、重みを感じた。耳元でスゥスゥと寝息が聞こえた。キョウコは深い眠りへと向かった。ベッドに寝かせると、頭を何回か撫でた。
このまますぐに帰ってしまったらキョウコが悪い夢に苦しんでしまうような気がして、しばらくキョウコの寝顔を見ていた。おだやかな表情をしている。三十分くらいたった後、音をたてないように部屋を去った。