夢の世界 04
コツコツと階段をあがる足音が聞こえる。アイコは水色の糸を手に持って、その対となる糸を探していた。足音を聞くとわかる。やってきたのは僧侶だ。アイコは僧侶の存在を知りながらも、糸を探すことに集中していた。カチャンという音が聞こえた。紅茶をのせたトレイをテーブルの上に置いたのだろう。紅茶の香りがする。アイコが集中しているので、僧侶は話しかけずに黙ってくれているのだろう。
「あっ、あった!」
アイコは持っていた糸と見つけた糸を蝶々結びにして、僧侶の方に振り向いた。
「また一本、繋げることができました」
僧侶は目尻にしわを寄せて微笑んだ。
「一人では大変でしょう。休憩しなさい」
アイコの繋げた糸は窓を抜けて、水色の空へ溶けていった。アイコはそれを確認すると「はい」と返事した。テーブルの上のトレイを見ると、紅茶が一杯とクッキーが五枚のっていた。僧侶はすぐに下に戻ってしまうだろう。
「あまり無理をしないように」
僧侶が足を階段に向けると、アイコは呼びかけた。
「僧侶様!」
少し大きな声を出してしまっただろうか。振り向いた僧侶の顔は少しだけ驚いている。しかしすぐに表情を笑みに戻す。
「なんでしょうか?」
「なぜ糸は切れてしまうのですか?」
僧侶は答えに困っている。視線をアイコに向けたが、答えはすぐに出てこない。アイコは左の手首を胸元まであげて、目を凝らす。
「私にも繋がっている糸が何本もあります。糸は日々輝きを増しています」
一本はナナ、一本はカオリ、一本はユキノ、一本はキョウコ。この四本は特に強い光を放っている。それ以外にも八百屋のヨシロウさん、花屋のお姉さん、寺院を清掃してくれるイトミさん。数えれば切りがない。それらの糸は決して切れたりしないとアイコは信じている。強く純粋な視線を僧侶に向ける。
「これらの糸は決して切れたりしません。自信があります」
僧侶は黙っている。アイコの言葉を肯定してくれなかった。どこか哀れんでいるようにも見えた。アイコは同じ質問を繰り返した。
「なぜ糸は切れてしまうのですか?」
僧侶の表情が少しだけ硬くなる。
「座りなさい」
窓際にある古い木のテーブル。休憩用に使う小さいテーブルで、トレイを二つ置ける程の大きさだ。その両端には椅子が二脚ある。二人は座り、向かい合う。
「お菓子を食べながらでよいですよ。紅茶も冷めてしまいますから」
「はい」
長い話なのだろうか。手に取ったクッキーを口に運ぼうとすると、僧侶は一言、こう言う。
「あなたと繋がっている糸も、切れるべき時には切れます」
僧侶がこんなことを言うなんて思わなかった。手に持っていたクッキーを落としてしまった。クッキーはトレイの上に落ちて、カツンという音が寺院の七階に響いた。アイコは僧侶に反抗したことなど一度もなかったが、強い声で「決して切れません!」と言い返した。すぐに自分の無礼に気付いて「あっ、すいません」と謝ったが、「でも……」と言葉を続けようとする。
「アイコ」
僧侶は諭すように名を呼ぶ。
「別の世界のお話をしましょう。アイコ、この話はあなたにとってはつらい感情を与えるかもしれません。それでも聞きますか?」
この世界のアイコは『つらい』という言葉の意味をあまり理解していない。無知であるがために怖い。しかし聞かなくてはならない。
「聞かせてください」
僧侶は視線を少し下げて話しはじめた。
「その世界は、憎しみ合う世界です」
憎しみ合う世界………… 僧侶の言葉はアイコの胸をついた。
「人は食物を奪い合い、土地を奪い合い、金を奪い合います。好いた者を奪い合うこともあるでしょう。奪った者は喜び、そして繁栄します」
「『奪う』とは、他者からですか?」
「そうです」
他者から何かを奪って喜ぶ? アイコには理解できない。しかしそんな人達に怒りを覚えて、両手を拳にして膝の上で震わせた。さらに僧侶の声が続く。
「奪われた者には負の感情が宿ります」
僧侶と目が合う。この世界では、ほとんどの者が淡い色の瞳をしている。水色や少し赤みがかった紫。アイコの瞳はピンク色だ。しかし僧侶の瞳は黒い。吸い込まれそうな黒い瞳だ。少し怖いと思った。
「奪われた者は相手を憎みます」
憎む? そんな言葉をアイコは使ったことがない。聞いたこともない。しかしなぜか言葉の意味がわかる。背中にゾクッとくるような不快感を与えられる。これが『つらい』という感情なのだろうか。
自分は人を憎んだりしない。憎まれたりしない。だからアイコはゆっくりと首を横に振った。
「わ、私は人から何かを奪ったりしません。もし何かを奪われても憎んだりしません」
強い想いは声にも含まれている。僧侶もアイコの想いを理解したと思うが、肯定しなかった。
「アイコ、聞きなさい。その世界の人間には征服欲というものがあります。本能は暴力を求めます。自分が楽を するために他者から搾取します。不運や力量のなさから目標に到達できず、本来憎むべきでない者を憎むこともあるでしょう。憎しみ合う世界では人の心は伝わりにくいですから、誤解もあるでしょう。憎しみは波紋のように広がり、多くの人の心を飲み込みます。その波紋の中にあなたが巻き込まれることもあるでしょう」
僧侶が話しているのはこの世界のことではない。『憎しみ合う世界』のことだ。しかしなぜだろうか。アイコには作り話のように聞こえなかった。どこかにそんな愚かな世界が存在しているのだろうか。その世界には自分と同じように正しい心を持った人間が存在しているのだろうか…………
「やめてください!」
アイコは叫ぶと、両方の拳で木のテーブルをドンッと叩いた。そして立ち上がった。ティーカップや皿が振動してカチャンと音をたてた。紅茶がトレイの上に少しこぼれた。
「人は人を不幸にしたりしません! 憎んだりもしません! 人は人を幸せにすることを常に考えます! 私が そう強く願うように、全ての人がそう願っています!」
一気に声を出してしまい、「はぁはぁ」と大きく呼吸をする。涙が流れていた。体も震えていた。
「あっ、私…………」
僧侶に向かって大声を出してしまった。後悔して、肩を小さくした。
「す、すいません」
震えたまま、頭を深く下げた。僧侶も立ち上がってアイコの横に立ち、両肩に手を添えた。
「いいのですよ。その純粋な気持ちがあなたなのですから」
やさしい声で褒められても口からは「すいません」としか言葉が出てこない。
「座りなさい」
僧侶はアイコの肩に手を置いたまま、問うた。
「もしその世界、憎しみ合う世界にアイコが生を受けたら、アイコはどうしますか?」
涙が止まらない。つらい。そんなことを考えたくない。横に立っている僧侶を見上げると大粒の涙がこぼれた。それでもアイコは懸命に僧侶の問に答えた。
「そんな冷たい世界に生まれてしまったら、きっと心まで冷たくなってしまいます。きっと死んでしまいます」
僧侶は首を横に振った。
「それでもあなたは糸を繋がなくてはなりません」
「えっ?」
そんなの無理だ。できるはずがない。そんな世界で生きていけるはずがない。
「アイコ、あなたは糸の繋がりの大切さを知っています。その大切さは、もう一人のあなたも知っているはずです」
もう一人? そう疑問に思ったのは一瞬で、なぜかすぐに答えを得ないままに頭の中から消え去った。
僧侶は階段の方へ歩いた。
「新しい紅茶を持ってきましょう」
アイコは僧侶の後姿を見た。僧侶が着ている黒ずんだオレジンの袈裟が、この世界にはない、別世界の物のように見えた。