夢の世界 03
アイコは徒歩で寺院に向かう。家の外に出るとまず深呼吸する。木々の香りをおびた空気を大きく吸い込んでハァと吐き出すと、清々しい気持ちになる。
アイコ達が暮らしている木造の家は街よりも少し高台にある。寺院を中心とする円状の街を見下ろすことができる。日が昇ると街は日光に照らされ、水色で覆われる。街に近付くとだんだんと水色が増していき、気が付くと全ての物が水色に染まっている。地面や草木、そしてアイコも。元々の色が何であっても水色に染まる。心までも水色に染まる。自分の心は元々何色だったのだろうか? またそんなことを考えている。白か、淡い黄色か、どちらかだろう。
土の道を何分か歩くと石畳の道になり、靴の底の土が落ちる頃には寺院が見えてくる。寺院の近くには店が多く、朝方でもパンや野菜を売っている。洋服屋や本屋はまだ閉まっているので、二軒に一軒くらいの割合で店が開いている。アイコは店の人と目が合うと「おはようございます」と頭を深く下げて挨拶した。店の人も微笑みとともに「おはよう」と挨拶を返してくれる。
寺院は塔のようになっているのだが、下の方が太く、上の方が細い。寺院の中に入ると水色の光は弱くなる。高い位置にある小さい窓からしか光が入ってこないので、寺院の中は薄暗い。さっきまで水色の光に包まれながら歩いていたので、寺院の中の暗さに目が慣れるまでにはしばらくかかる。しかしアイコは目が慣れていないうちに寺院の中を歩く。自分の仕事場までは目をつむっても辿り着ける。一階の広間を歩み、中央にある木製の螺旋階段を七階までツカツカと早歩きでのぼる。階が増すたびに寺院は狭くなるので、最上階の一つ下の七階はアイコの部屋と同じくらいの広さしかない。
「アイコ、おはよう」
アイコが来るのを僧侶が待っていた。七階に着く頃には目が慣れているので、僧侶の顔をはっきりと見ることができる。
「おはようございます」
アイコは深く頭を下げた。
僧侶とはこの世界にとって特別な存在である。この世界の人々は三十才を過ぎてもそれ以上はあまり歳をとらない。十代後半の姿のままでいる人も多い。それなのに僧侶だけが歳を重ねる。大人たちの二倍くらい生きればこのくらいの歳になるのではないかと想像するだけで、何歳なのかわからない。僧侶以外でそういう人がいないのだから、わからないのも当然だ。僧侶に年齢をきくのはこの世界のタブーであり、気になりながらもアイコは一度もきいたことがない。この世界の人々は淡い色の服を好んで着るが、僧侶は少し黒ずんだオレンジの袈裟を着ている。僧侶は皆女性なのだが髪はどの僧侶も黒く、少年のように短い。淡い光の世界の中で、僧侶の存在だけが浮きだって見える。
僧侶は両腕を軽く広げる。アイコも同じように広げる。互いの背中に手を回して、一度だけ少し力を入れると、アイコはすぐに僧侶から離れる。アイコの挨拶に問題がなかったようで、僧侶は微笑みとともに大きくうなずく。アイコもつられるように微笑んだが、僧侶はすぐに表情を戻す。
「キョウコがまだ来ていません。来るまでは一人でお願いしますよ」
昨日も随分と遅くから来た。
「今日もまだ眠りから覚めていないのですか?」
「多分そうだと思います。この世界では深い眠りにつく者を無理に起こせませんから、起きるのを待つしかありません」
夏の暑さが過ぎた頃からキョウコの眠る時間が日に日に増えている。
「あまり寝すぎては良くないと聞きますが、キョウコは平気なのでしょうか? 昨日もうつむいていることが多かったのですが」
「あまり良くないのですが、こればかりはどうすることもできません。昨日も起きている時間が二時間くらいしかなかったようですから、私も心配しています」
アイコは驚いた。
「二時間? 逆に言えば二十二時間寝ているということですよね」
「ええ。この世界では十六時間から十七時間くらいの睡眠がちょうど良いとされています。ですから非常に長いです」
不思議なことに、この世界の者はこの世界についてあまり多くを知らない。
「寝続けてしまうとどうなるのですか?」
「体の調子も悪くなるでしょうし、精神も不安定になります。起きている時間が四、五時間ならば問題ないと思い、静観していました。しかしここ最近のキョウコは起きている時間がそれよりももっと短いです」
アイコは心配になった。僧侶はそんな気持ちを読み取ったのだろう。微笑みかけてくれた。
「しかし数日続いたからと言って、突然具合が悪くなったりはしません」
そう言われても心配は晴れない。僧侶は微笑んだまま、アイコの肩を軽く撫でた。
「アイコ。キョウコが来たら、いつもよりも強く抱きしめてあげなさい」
アイコとキョウコは寺院の仕事をしているから、僧侶の言葉に忠実だ。だから朝の挨拶をする時、二人は強く抱き合っている。
「いつも強く抱き合っていますが、もっと強く抱いても良いのでしょうか?」
僧侶はうなずいた。
「強く抱きすぎると、家の人にはよく怒られるのですが」
「この世界では、強く抱かれて嫌がる人なんていませんよ」
アイコの家の人は文句を言っていた。アイコはあまり僧侶に対して意見しないのだが、「そうなのでしょうか?」ときいた。
「アイコ。あなたは強く抱かれて嫌だったことが一度でもありますか?」
確かにそうだ。それに気付くと、しっかりと自信のある笑顔で首を横に振った。
「キョウコが来たら、一番強い力で抱きしめます」
僧侶は大きくうなずいた。
この世界では目を凝らすと水色の光る糸が見える。それは人と人との繋がり。一本の糸は二人を繋いでいる。しかしどちらかの想いが弱くなると、糸は切れてしまう。切れた糸は人の心のように迷って、この寺院に集まる。糸は物質を通り抜け、寺院の頂上へ向かう。寺院の頂上に何があるのかは誰も知らない。螺旋階段は八階へと繋がっているが、誰ものぼろうと思わない。七階から見上げると水色の光の塊が見える。アイコは一瞬それが何であるのか気になったが、すぐにファッとした感覚に襲われ、疑問は頭の中から消えてしまった。
「あっ、いけない、いけない。今日も一人だから頑張らなくっちゃ」
迷った糸は数千本の単位で集まり、幹のように太くなる。その幹は七階の部屋に二十本くらいある。アイコは新しくできた幹の一本に近寄ると、求め合っている二本の糸を見つけた。互いの気持ちが迷ってしまい、糸が切れてしまっても、また繋ぎ合いたいと思うのが人の心だ。それらの糸を結ぶのがアイコの仕事だ。蝶々結びで二本を結ぶと、すぐに結び目は消えて一本の糸になる。糸はフワッと浮いて、この寺院を去っていく。糸との別れは少しだけ寂しい気持ちにもなるが、雛鳥が巣立っていくように感じて、温かい気持ちにもなれる。糸は南側の窓を抜けて、水色の空に溶けるように消える。
「もう二度と切れないでね」
アイコは幸せを顔に出してそうつぶやくと、すぐに真剣な表情に戻った。
一本の糸をジッと見つめて、その声をきいた。その糸は名前を叫んでいた。アイコは他の糸にその名前を思念で呼びかけた。思念は七階の狭い部屋に広がったが、返事は帰ってこない。もう一度呼びかけたが、やはり返事はない。
「ごめんね……」
その糸を幹から少し離した。片方の心が繋がりを求めても、もう片方の心がそれを拒めば糸は繋がらない。一方の糸が色濃く残っても、一方の糸はもうこの世には存在しない。アイコはいつか繋がるかもしれないと思い、しばらく端の方に寄せておく。しかしそういった糸の想いが成就されることはほとんどない。千本に一本もない。何日かすると、繋がりを求めていた糸もやがてその水色の輝きを失って消えてしまう。大切な光なのになんてもろいのだろうかと、アイコは思う。