夢の世界 12
切れた糸は必ず寺院にやってくる。さっきキョウコが抱きしめていた糸も、しばらくするとアイコの目の前にあった。アイコは自分の手首からキョウコと繋がるべき糸を探して、切れた糸と結んだ。結んだ糸はファッと浮いて、窓の方に向かい、水色の空に溶けていった。少し安心する気持ちにもなったが、訳のわからない不安の方が大きかった。誰が糸を切ってしまったのだろうか? キョウコが訳のわからない悪夢におびえるように、訳のわからない何かがキョウコとの繋がりを切ってしまうのだろうか? 切れたことだけでも不思議なのだが、アイコはキョウコのことを忘れてしまっていた。それはなぜなのだろうか? 仕事をしながらもアイコは考えた。
「私がキョウコを拒絶する? …………ありえない」
昨日まで糸は強く水色に輝いていた。おかしい。一度繋がった糸を切ってしまおうだなんて思わない。一度友達になった子を拒絶しようだなんて思わない。良い人でありたいという願望がそう思わせるのだろうか? いや違う。キョウコとの糸が切れてしまったのはアイコだけではない。ユキノも同じだ。ユキノだって一度友達になった子を拒絶なんてしない。主観的に捉えても、客観的に捉えても、やはり納得ができない。
気になることが他にもある。キョウコの家はなぜ誰も住まないような場所にあるのだろうか? 薄暗く重い風景。家も淡い色ではない。外観は黒ずんでいて、家の中も薄暗い。キョウコがそうなるように望んだのだろうか? いや、そんなはずはない。だとしたら、なぜ虐げられるようにあんなところに住んでいるのだろうか? 真面目で一所懸命なキョウコがそんな仕打ちを受けるべきではない。
「なんでキョウコだけが…………」
アイコはまず自分の出来ることを考えた。僧侶に相談してみよう。次に、キョウコの家に行ってみよう。そうすれば解決する方法を見つけられるかもしれない。キョウコがたくさん仕事をしてくれていたので、今日の分の仕事も残りわずかだ。気持ちを切り替えてアイコはテキパキと仕事をこなして、早めに終わらした。
仕事を終えて一階に下りると、掃除をしている僧侶の姿を見つけた。普段のアイコは一日分の仕事が終わっても時間になるまで明日の分の仕事をする。アイコがいつもよりも一時間早く一階に下りてきたので、僧侶は「どうかしましたか?」ときいた。
「キョウコが…………」
説明しようと思ったが上手く言葉が出てこない。そうだ。まずわからないことから聞こうと思った。
「教えてください!」
僧侶の顔はいつものように穏やかで、首をコクンと縦に曲げた。
「キョウコと私を繋ぐ水色の糸が切れてしまいました。なぜなんですか?」
僧侶は「残酷な言い方かもしれないですが」と前置きすると、アイコの問に答えた。
「切れるべき糸は切れ、繋がるべき糸は繋がる。それがこの世界の摂理です」
アイコはこの世界の『摂理』に対して怒りをあらわにした。
「切れるべきって、どういうことですか?」
キョウコが毎日見ている夢の中の悪魔のように、この世界にも糸を切ってしまう悪魔がいるとでもいうのか? それとも別の世界の悪魔が意味もなく二人の水色の糸を切ってしまうというのか?
「教えてください!」
僧侶は「糸が切れてしまう理由は、昨日、話したとおりです」と言うが、その答えではアイコは納得できない。
「私とキョウコの糸が切れてしまった理由、私はそれを知りたいのです」
僧侶は首を横に振った。
「この世界のあなたはこの世界の言葉しか知りません。別の世界で起きていることをあなたに話したとしても、あなたは別の世界の言葉を理解できません」
確かにアイコは、昨日僧侶が言った言葉を理解できなかった。僧侶の言葉を受け入れられないのだから当然だ。
「アイコ。仮にあなたの問に私が答えても、あなたは私の言葉を理解できないでしょう」
理解できない言葉であってもいい。その答えをききたい。昨日とは違う。今日のアイコは僧侶の言葉を受け入れる覚悟がある。なぜキョウコとの糸が切れてしまったのか、それがわからなくてはまた切れてしまうかもしれない。
「わからない言葉であってもいいです! 話してください!」
アイコが強く申し出ても僧侶は黙ったままだった。
「僧侶様!」
すがるようにアイコが言うと、やっと僧侶の口が開いた。
「私の言葉は道標。歩くのはあなたです。あなたが歩いてたどり着いた先に見るものを、私はあなたに教えてはいけません。そんなことをしたらあなたは歩むのを止めてしまうかもしれませんから」
例え苦しんでも自分で考えなさいと、そういうことだろう。僧侶は今朝、キョウコにも何かを話していた。心に傷を負ったキョウコにも今と同じようなことを言ったのだろうか。僧侶はいつも親切なのに、時折厳しいことを言う。この世界の者のために厳しい言葉を投げかける。その僧侶が教えられないと言っているのだから、これ以上質問を繰り返しても答えを得られないだろう。
「わかりました。自分で答えを探します」
アイコは答えてくれないかもしれないと思いながらも質問を変えた。
「気になることがまだあります。僧侶様はキョウコがどんなところに住んでいるのかご存知ですよね? 地図を書いてくれましたから」
僧侶は「はい」と言って、うなずいた。
「なぜ、あんなところに住まわせているのですか? あんなところに一人で住んでいるから毎日悪夢を見るのではないですか? キョウコには特別な何かがあるのですか?」
「キョウコが望んだから、キョウコはあそこに住んでいます。それ以外の理由はありません」
確かにキョウコはアイコの家には行きたくないと言っていた。その理由は『怖いから』と…………
「無理にでも、私が住んでいる家に連れて行きたいと思っているのですが、構わないですか?」
アイコは強い口調でそう言ったが、僧侶はすぐに首を横に振った。
「この世界では相手の嫌がることはできません。アイコがキョウコを説得できるのならばもちろん許しましょう。アイコ、あなたは自分の家に連れて行けばキョウコを救えるだろうと思っているかもしれませんが、キョウコの手を無理矢理に引いて、あなたの家に連れて行くことはできません」
確かにその通りだ。キョウコがアイコの家に行きたいと思わなくては、連れていけない。
「わかりました。それなら私がキョウコの家に住みます」
僧侶は哀れむようにアイコを見つめた。
「あなたの意志はすばらしいと思います。しかし覚悟をしているようではありません」
「覚悟?」
「一本の糸を結ぶために三本の糸を断ち切ってしまうかもしれません」
三本? 一瞬意味がわからなかったが、すぐに三人の顔が浮かんだ。ユキノ、ナナ、カオリ。この三人のことだ。アイコは感情的になって僧侶に言い返した。
「住むところが変わっただけで、糸は切れてしまうって言うんですか? そんなに人と人との絆とはもろいものなのですか?」
僧侶は諭すように答えた。
「あなたが思うように人と人との絆は強いです。しかしそれでいて非常にもろいのです」
もろい? わからない。ユキノ達と繋いでいる糸がもろいはずがない。アイコは僧侶の言葉を信じられなかった。
「アイコ、よく聞きなさい。ユキノとキョウコの糸は切れたままです。それなのにあなたは自分と繋がる糸だけが決して切れないと、どうして言い切れるのですか?」
アイコは『自分は特別だ』と思うような愚か者ではない。だから「うっ」と声をもらしただけで、僧侶の問には答えられなかった。
「キョウコとあなたの糸が切れてしまった理由は、この世界にいる限り私であっても知ることができません。それは当事者たるあなたであっても同じです。しかし誰が切ったのかは考えればすぐにわかるはずです。考えようとしないから、あなたは答えを得ていないのです」
「えっ、誰が…………」
僧侶の言葉をきいて、すぐに答えが頭に浮かんだ。キョウコはアイコのことを忘れていなかった。それなのにアイコはキョウコのことを忘れていた。つまりキョウコはアイコとの繋がりを求めていたにも関わらず、アイコは求めていなかったのだ…………
「そんな…………」
アイコは信じられず、ゆっくりと首を横に振った。心の中には答えがあるのだが、その答えから逃れたかった。僧侶はアイコに追い討ちをかけるように、その答えを口にした。
「糸を断ち切った者はアイコ、あなたです」
そんなことはない。絶対にない。アイコはそう信じる。いや、そう信じたいだけだ。でもアイコはキョウコのことを忘れていた。これが、アイコが糸を断ち切ったという何よりの証拠だ。アイコはこの世界において初めて自分の愚かさを知った。愚か者……いや、そうじゃない。
「悪魔……私もその一人だ…………」
この世界において僧侶の言葉だけがアイコにつらい感情を与える。アイコにはその理由がわかった。僧侶は覚悟を試しているのだ。しかし、アイコにはその答えが見つけられなかった。
「私、キョウコの家に行きます。そして、話し合って、答えを見つけます」
覚悟を決めたアイコの顔は凛々しかった。
「僧侶様が言うように糸はもろいかもしれません。でも、私は信じています。ユキノ、ナナ、カオリ、この三人の糸は絶対に切れないと」
僧侶の顔にはもう鋭い表情はなかった。微笑んでいた。
「自分の信じることを続けなさい」
アイコは「はい」と大きな声で答えた。