夢の世界 11
以前、僧侶に『楽しい気持ちで仕事をしなさい』と言われた。『長いおしゃべりは良くないですが、短いおしゃべりならばしてもよいですよ』とも言われた。楽しく仕事ができるように、仕事仲間と話しなさいということだろう。アイコは一本の水色に光る糸を持って、それと対になる片方を探しながらキョウコに話しかけた。
「体の調子、戻ったみたいね。良かった」
キョウコは話しかけられて驚いたのだろう。「あっ」と声を漏らした後、「う、うん」と短く答えた。キョウコがしばらく何も言わないから、会話が終わってしまったと思った。今度はどう話しかけようかとアイコが考えていると、遅れてキョウコの声が聞こえた。
「昨日見た夢も、悪夢は悪夢なの。でも、いつもと少し違っていたの。私が足を運ぶ部屋の中にはいつも悪魔しかいなかったのに、昨日は女の子がいたの。その子は私に同情してくれた。同情されるのなんて情けないって思っているのに、涙が出そうになるくらい嬉しかったの。でも、私は泣くことだって許されないし、その子が差し伸べた手を握ってもいけない。私が毎日見ている夢の世界は、そういう世界なの」
なんて残酷な世界なのだろうか。そう思った瞬間に、僧侶の言葉を思い出した。
『憎しみ合う世界』
そんな世界があるのだろうか。
「でも、その子は同情ではないと言ってくれたの。夢の世界で私には友達なんて一人もいなくて、友情がどんなものであるかなんてわからないの。でもね、その子が私にかけてくれた同情の中にも友情が含まれているんじゃないかって、勝手にそう思ったの」
言葉尻が涙声になった。アイコはキョウコの方に顔を向けた。潤んだ瞳から綺麗な涙がツツッと二つ流れた。キョウコは灰色のロングスカートのポケットからハンカチを取り出して、急いで自分の目にあてた。
「ご、ごめんなさい。思い出したら、嬉しくなっちゃって」
キョウコは水色の光る糸を持ったまま、視線を水色の幹に向けた。幹は淡い光を放っている。大気から降り注ぐ光のような強さはないが、さまよってこの寺院にやってきた水色の糸にもキョウコを照らすくらいの光の力はある。白銀の髪が水色に輝く。
「その子の言葉は私の胸に刺さって、波打つように温かいものが体に広がったの。いつもは訳のわからない恐怖感に苦しめられて、体の力が抜けなくてため息ばかりしているのに、昨日は違ったの。恐怖感も少しだけ小さくなったの。多分、私は悪夢の中に一筋の光を見たんだと思う。だから今日、朝早く起きれたんじゃないのかな」
アイコはキョウコの涙を見て心配する気持ちにもなったが、キョウコが嬉しそうに話していたので何も言わずに見守った。しかしキョウコは急に首をカクンと下に向けて、涙をポタポタと落した。長めの前髪が邪魔をして、表情が見えない。
「私、その子に酷いこと言っちゃったの。夢の世界では…………」
足に力が入らなくなったのだろうか、キョウコはストンっと石畳の床に腰を落とした。
「キョウコちゃん?」
アイコはキョウコのそばに駆け寄った。そばに行くとわかった。キョウコの体は震えていて、特に手はミツバチの羽のようにすばやく震えていた。声も震えていたが、聞き取ることはできた。
「夢の世界では、私はそうしなくてはならないの。私はその子の幸せを望むから、そうしなくてはならないの。あぁ、なんてひどい世界なんだろう。私を救おうとした人にだって感謝の言葉を伝えられない。あの世界はなんであんな世界なのか…………」
アイコも床に腰をおろし、キョウコの肩を抱いた。しかしかける言葉が思いつかない。
「夢の世界で……私は私でいられない」
キョウコの声は怨念のようであった。
「死んでしまいたい」
キョウコの挙動は普通ではなかった。しかし夢の世界の話だ。普通に考えれば『夢の話だから気にしない方が良いよ』と言って、キョウコを安心させるべきだ。でも、なぜかその言葉は口から出てこなかった。アイコも単なる夢の話だとは思えなくなっていた。だから黙ってキョウコの背中をさすることしかできなかった。
キョウコはしばらく泣いていたが、泣き止んだ後は仕事を淡々とこなした。根が真面目なのだろう。アイコのように何回も首をコキコキと動かしたり、ボーッと窓から水色の空をながめたり、キョウコにはそういう甘えが全くない。懸命になって糸と糸を結んでいる。
やさしい気持ちの持ち主なのだろう。対となる糸を見つけられないと非常に落ち込む。アイコも見つけられないと残念な気持ちになるが、キョウコはため息をついたり、首を横に振ったりして、その気持ちはアイコよりも強いようだ。アイコは好きでこの仕事をしているが、キョウコはもっと好きそうに見える。特に糸と糸を結ぶ時は、すごく幸せそうな顔をする。結ばれた糸が水色の空に帰るのを目で追い、胸元で手を組んでその絆の幸せを祈る。そんなキョウコの姿を見ていると、自分も頑張らないとな、とアイコは思った。
アイコは一本の水色の糸を幹の中からつまんだ。その光は強かった。最近切れてしまったのだろう。その糸から色々な言葉を読み取った。
『感謝』『謝罪』『友情』
アイコは深く目を閉じて、対となる糸を探した。すると手に持っていた糸から深い悲しみの声を聞いた。
『死んでしまいたい』
「はっ」
アイコは驚いて目を大きく開いた。キョウコの声だ。この糸は…………
アイコがキョウコの方に顔をすばやく向けたので、キョウコもそれに気付いた。アイコはキョウコの左の手首を見ていた。キョウコにもアイコが何を見ているのかわかっただろう。するとキョウコはアイコに駆け寄った。キョウコの大人しい外見からは想像できない素早さで、アイコの手から水色の糸を奪った。そして糸を持った右手を胸元に強く押しつけて、更に上から左手を重ねた。
「この糸はいいの!」
大きな声でそう言う。なんでそんなことを言うのだろうかと、アイコは疑問に思った。
「いいわけ……ないでしょ?」
キョウコは首を横に振って、その糸を抱きしめたまま離さなかった。
「キョウコちゃんのなんでしょ? 切れちゃったんだね。でもきっと見つかるよ。対となる糸を探そうよ」
アイコは手をキョウコの胸元に向けるが、キョウコは数歩後退して、アイコとの距離をとった。
「だめっ この糸は違うの!」
キョウコの言っている意味が全くわからなかった。結んでいけない糸なんてあるはずがない。
「キョウコちゃん、どうしたの? ここは夢の世界じゃないんだよ。怖いものなんて何もない。そうでしょ?」
「だめぇ!」
またキョウコは後に下がり、壁を背にした。アイコはどうして良いのかわからないながらも、キョウコにゆっくりと歩み寄った。
「来ないで!」
この世界で拒絶されることはあまりない。アイコが朝の挨拶で強く抱きしめても、みんなは受け入れてくれる。もちろんやりすぎればナナに拳で頭をポクッと叩かれるが、本気で嫌がられたりはしない。誰にどんな言葉をかけたとしても、この世界では誰もが受け入れてくれる。
なんでキョウコはこんなことを言うのだろうか。人の嫌がることはできない。それがこの世界の決まりだ。だから『来ないで』と言われてしまうと、歩み寄れない。でも、本当にキョウコは来て欲しくないと思っているのだろうか? 違う。絶対にそんなことはない。アイコには自信があった。だから歩み寄った。キョウコは壁に背中をあずけているが、それ以上逃げようとはしなかった。アイコはキョウコの肩に触れて、強く自分の方に引き寄せた。キョウコの体は力なくアイコの胸に向かった。アイコはキョウコの背に手をまわした。キョウコは抵抗せずに、むしろ体をアイコに寄せた。だからアイコは強く抱きしめた。
「来ないでなんて、そんな寂しいこと、言わないで」
するとアイコは光を見た。自分の左の手首から水色の光をまとった糸が見えた。糸は宙を舞っていて、誰かに繋がることもなく切れていた。そしてキョウコが胸元で抱きしめている糸と共鳴した。糸は太く、今日一日で作られたものではない。日々の積み重ねがあったからそこ太く、そして鮮やかに輝く。
「キョウコ!」
その呼び方は今日はじめて会った人に対するものではなかった。アイコはキョウコと過ごした日々を思い出した。しかし嬉しく思う前に、非常に驚いた。信じられない。糸は切れていた。自分と繋がる糸は決して切れないと信じていたのに。それなのに糸は切れた。なぜなのだろうか? なぜ糸は切れたのだろうか?
「キョウコ…………」
アイコはまた名を呼んだ。アイコが記憶を取り戻したことにキョウコも気付いただろう。アイコが脱力して両手を下にさげると、キョウコはアイコの体を軽く押し、そして走り出した。アイコは押されたままの勢いで後に数歩よろめいた。キョウコを追おうと一歩足を踏み出したが、力なく足がもつれてしまい、その場に座り込んだ。追い求めるようにキョウコの後ろ姿に右手を向けたが、それ以上のことはできなかった。キョウコは螺旋階段をコツコツと足音をたてながら下り、去っていった。