夢の世界 09
悲しみを負う。自分自身の弱さを戒めたいと思う。愛子は夕食を食べて風呂に入ると、ベッドにゴロンと横になった。体が重く感じて、何もしたくない。胸に杭を打ち付けられたような苦しみだ。川島に打ち付けられたわけでもない。柏原に打ち付けられたわけでもない。自分で打ち付けたのだ。理想は必ずしも現実にはならない。それは知っていた。しかし自分の行動すら思い通りにならないことがあるだなんて、それは知らなかった。
眠りには救いがあるように思う。このままずっと後悔し続ければ身を病んでしまうだろう。朝になれば多少は気が楽になっていると、そういう経験則が身に染みている。だから布団を頭からかぶって、目を閉じた。いつもより寝つきは悪かったが、十二時になる前に意識はなくなっていた。
肩の力が抜ける。体に力が入らなくなる。落ちていく。苦しみから解放される。解放される? 逃げているだけなのでは? 一瞬そう思う。しかしそんな思いだって落ちていく度に消え去っていく。起きていた時のことを忘れ、どんどん落ちて、そして底にたどり着く。自分を囲む世界を認識する。
窓から差し込む水色の光と、天井の輪から灯されるオレンジ色の光は混ざり、ピンク色の光になる。その光は淡いようで色濃い。心の色は重苦しい色だったように思う。上塗りされるように、光を受けて心はピンク色に染まる。光は善悪を問わず人を照らす。つまり、どす黒い心のままであっても光を得ることができる。だから戸惑う。善意とそれ以外のものを天秤に掛けると、それ以外のものの方が大事であると思ってしまう。光は善悪を問わず人を照らすのだから、自分の心の色が何色かなんて、そんなことを気にする必要もない。自分の胸に杭を打ちつける必要もない。
心の中から善意を排除すれば、苦しみから解放される。
心の境界線の内側には友達がいる。内側にいる者の幸せだけを願えば良い。逆説的に言えば、幸せを願えない者を境界線の外側に退ければ良い。だから苦しみから解放されるのは簡単だ。
小鳥の声で目覚める。
アイコはいつものようにナナに起こされた。抱きついて朝の挨拶をした。いつものように強く抱きしめると、いつものように頭をポクッと叩かれた。
「朝食の準備がまだみたいだから、先に着替えな」
ナナはそう言うと部屋を出て行った。
アイコが着替え終わってリビングに向かう頃には、ユキノはすでにテーブルに座っていた。新聞を読みながら一定の間隔で紅茶に口をつけている。ユキノが自分よりも先に起きていたので、アイコは時計を見た。いつもよりも起きるのが遅かったようだ。
アイコがユキノのそばに立つと、ユキノは「ん?」と言って、疑問の表情を見せた。
「おはよう」
アイコがニコッと笑うと、すぐにその意図を読み取った。ユキノは面倒くさそうにする。
「もうっ わかったよ。朝の挨拶ね」
新聞をテーブルの上に置いた。座ったままだったが手を下にぶらんとさげた。アイコはいつものように後から抱きついた。自分の顎をユキノの首元にもっていき、強く押し付けた。ユキノもいつものようにアイコの腕を軽く撫でた。
「アイコ、ブラウスにしわができちゃうよ」
アイコはパジャマ姿のときのように頬をグリグリとしなかったが、抱く強さはいつもと変わらなかった。アイコはスッと身を引くと、首を下に向けて、ブラウスにしわができていないか確認した。
「大丈夫、大丈夫」
他の人と違ってユキノは強く抱かれてもあまり動揺しない。何事もなかったかのようにまた新聞を広げた。
カオリは朝食の支度をしている。レンガでできた釜の前に立ち、パンが焼きあがるのを待っている。その隙をついてアイコは朝の挨拶をした。あまり時間をかけて抱き続けると、パンが焦げてしまう。だからすぐに離れて、テーブルに戻った。ユキノの正面に座った。
他人にはない何かがユキノにはあるとアイコは思う。そう思うのはユキノの性格だけではなく、外見によるところも大きい。ユキノの髪は他の人と比べると随分と濃い色をしている。多少金色を含んでいて光にも反射するが、光が弱いところでは焦げ茶色に見える。この世界のほとんどの者は淡い色の髪をしているので、ユキノの髪の色は目を引く。
「ユキノの髪の色はなんで濃い色をしているのかな?」
アイコはなんとなく疑問を口にした。
ユキノは新聞を読んでいたので、質問の内容を聞いていなかったのだろう。新聞の上から瞳をのぞかせて、「えっ?」と声を漏らした。アイコは自分の髪を少しつまみながら「か・み・の・い・ろ」とはっきりとした声で言った。ユキノにとってはつまらない話だったのだろう。平坦な声で答えた。
「髪の色? ああ、みんなよりも濃いよね」
アイコは言葉の続きを待った。ユキノは視線を新聞に戻そうとしたが、アイコがずっと見つめているのに気付き、再び新聞の上から瞳をのぞかせた。
「私も気になってね。昔、僧侶にきいたことがあったんだ」
僧侶様? そういえば僧侶の髪も濃い色をしている。アイコは興味深く「それで?」ときいた。
「いや、まぁ、別に、大したことは言われなかったよ。自分がそうありたいと思うからそうなったってね」
確かにそうかもしれないが、アイコの納得のいく答えではなかった。
「僧侶様は何でも知っているようだけど、たまに質問をしても言葉を濁すことがあるよね」
アイコは別に僧侶のことを批判するつもりもないのだが、その声には不満が含まれていた。するとユキノは新聞をたたんでテーブルの上に置いた。
「いや、言ったままの意味で、他意はないんじゃないの?」
「えっ?」
ユキノは自分の考えを話した。
「この世界が理想だとすると、理想を求める人は、この世界の空のように淡い色を求める。そういうことなんじゃないの?」
アイコの眉間にしわがよった。
「どういう意味? ユキノはこの世界を好いていないということなの?」
アイコの口調が強く早口だったので、ユキノは少し慌てた。
「あっ、いや、そういう意味じゃなくてさ。本当に言葉のままの意味」
ユキノの言葉は『理想を求める人は淡い色を求める』という意味なので、確かにアイコにも当てはまるし、この世界の多くの人にも当てはまる。しかし髪の色の濃いユキノにも当てはまるのだろうか。ユキノの言葉を逆説的に捉えれば、『理想を求めない人は淡い色を求めない』という意味になる。ユキノは理想を求めていないのだろうか。アイコには信じられないし、信じたくもなく。緊張したアイコの顔に気付いたのだろう。ユキノは苦笑した。
「変なふうに考えないでよ」
アイコすぐに「変って?」ときいた。
「いや、まぁ、なんていうかさぁ。世界がどんなふうであっても、私は私でしかない。そういうことでしょ? 単純に」
アイコはまた逆説的に考えてしまう。世界によって自分は変わってしまうのだろうかと………… 確かに僧侶も言っていた。
『憎しみ合う世界にアイコが生を受けたら、アイコはどうしますか?』
そしてこうも言っていた。
『それでもあなたは糸を繋がなくてはなりません』
そんなこと……できるはずがない。
アイコが僧侶の言葉を思い出していると、階段から足音が聞こえた。ナナが一階に戻ってきた。テーブルに置いてあった新聞に手を伸ばし、アイコに声をかけた。
「一緒に働いている子の体調、今日は直っているといいね」
一瞬、ナナの言っている意味がわからなかった。『働いている』と言っているのだから、寺院の仕事をしている人のことだろう。『直っている』という言葉を反芻して、ハッと記憶が戻った。そうだ! 一緒に働いている子が起きている時間が短いとかで、昨日寺院に来なかったのだ。アイコはそのことを思い出したが、その子の顔や名前を思い出せなかった。ここ数ヶ月、一緒に仕事をしているのを覚えているのだから、とても奇妙だ。しかし疑問はすぐに頭の中から消え去ってしまう。この世界での『記憶』とはそういうものなのだ。
アイコが黙っていたので、ナナは「どうしたの?」ときいた。
「ああっ、そうね。直っているといいわね」
目を細めて自分の左手を見たが、その子との糸は見えなかった。