現実 07
今日の授業が全て終わった。雪乃はバスケ部に行ったが、菜々は部活が休みだった。愛子と菜々は教室で三十分くらいおしゃべりをした後に、駅まで一緒に帰ることにした。
学校は全体的に西洋的な雰囲気だ。異国にいるように感じる。校舎の壁は赤レンガで覆われていて、通路は石畳だ。石畳には凹凸があり、歩きにくいという不満の声もあるが、愛子は気に入っている。都会の平坦なアスファルトばかり歩いているから、たまには凹凸のある石畳を歩くのも良いものだ。底の厚い革靴で歩いてもゴツゴツしているのがわかる。
校内には草木が多く、花壇が通行路と平行してずっと続いている。珍しい花も多く植えられている。どの季節であっても何かの花が咲いている。十二月の半ばだと、水仙の花が咲いていて、その花壇だけが白と黄色に染められている。愛子は歩きながらその花壇を見ていると、石畳の小さい石のでっぱりに足をとられて転びそうになった。
「わっとっ!」
菜々がとっさに手を掴んでくれて、難を逃れた。
「愛子、また転んだね、ふふっ」
「ごめん、ありがとね」
レンガ造りの門を越えるとすぐにアスファルトの道になり、夢の世界から現実に引き戻されるように感じた。アスファルトの道を左に曲がると、すぐに駅へと続く大通りにぶつかる。車の通りもそれなりにあり、排気ガスの臭いがする。
緩やかな坂道をのぼって駅のそばまで歩くと、菜々は駅の階段の近くにある売店の方に顔を向けた。
「あっ、あれって…………」
愛子も同じ方向に顔を向けた。長い黒髪と細い体のシルエットがまず目に映った。眉まで伸びる真っ直ぐな前髪。人形のような厚い二重の目。愛子はその姿を見て、「柏原さん……」とつぶやいた。
柏原は誰かを待っているようだ。愛子が柏原の方に歩むと、菜々も付いてきた。それに気付くと柏原も愛子の方に近寄った。視線はいつものように冷たい。菜々は愛子の背にまわり、小さい体を愛子の後に隠した。愛子は後を向いて「大丈夫だって」と菜々に言ったものの、何を言われるのか全く想像できない。愛子も少しだけ身構えた。
「話しがあるの」
柏原は愛子を見つめてそう言った。そしてジロッと菜々の方に視線をうつした。
「あっ、私、邪魔……なのかな」
柏原は肯定しなかったが、否定もしなかった。菜々は小さい声で愛子に「一人でも大丈夫?」ときいた。愛子は微笑んでうなずいた。菜々は歩きだして、「じゃ、また明日」と駅の改札を抜けた。一回振り返って愛子に軽く手を振って、階段を上っていった。
愛子はなんの話か全く検討がつかなかったので、とりあえず「ファミレスでも行く?」と言った。柏原は首を縦に振らなかった。
「下柳さん。帰りって、電車、上り?」
「あっ、うん。そうだよ」
壁に張り付いている大きな画面に次の電車の到着時刻が映し出されていた。柏原はそれを見た。
「短い話だからホームで。電車が来るまでには終わるから」
柏原はそう言うと、改札の方へテクテクと歩いた。愛菜は腕時計を見た。あと十分もしたら電車が来るだろう。そんな短い時間で終わってしまう話のために、わざわざ愛子が駅に来るのを待っていたのだろうか。疑問に思いながらも、柏原の後に続き、ホームへと繋がる階段を上った。
柏原はホームに出ると、周りを見渡した。階段の近くには同じ学校の生徒が多くいる。その生徒達から離れたいと思ったのだろう。テクテクと更にホームの先へと歩いた。この駅のホームには階段の付近にしか屋根がない。愛子達がその屋根を抜けると、日差しが二人を照らした。愛子はまぶしさに目を細めた。線路はずっと真っ直ぐに伸びていて、建物に邪魔されずに青い空が広く見えた。愛子よりも数歩先を歩く柏原の後姿を、青い空をバックにして見ていた。柏原の光沢のある黒髪は太陽の光によっていつもよりも輝いていた。
二人はホームの一番端にあるプラスティックの椅子のところまで歩いた。柏原が一番端に座ると、愛子は隣に座った。柏原は両手を腿のあたりにおいて、背筋を伸ばして座っている。そして口を開いた。
「同情で話しかけたって、友情にはならない」
雪乃の言葉をなぞるように言った。柏原は大きな瞳を少し落としぎみにし、瞳には光が映っていた。空の青さがそこにもあった。
「私もそう思う」
柏原の言葉は愛子を責めるものではなかったが、冷たいその声は愛子の胸に突き刺さった。愛子の行動を他者は『同情』という一言で評価してしまう。でも愛子の心の中にある感情は一つではない。雲のように広がっていて、もっと曖昧だ。それに混ざり合っている。柏原に対する気持ちには同情と似たものが含まれているかもしれないが、それ以外の気持ちも多く含まれている。その曖昧な雲のような気持ちを『同情』と名付けられたくはない。『同情』なんて言葉は嫌いだと、愛子はそう言いたい。
「違う」
愛子が柏原の言葉を否定すると、柏原は首を真横に向けた。柏原の大きな瞳には空の青色が映っている。愛子はその視線に負けないように「同情なんかじゃない」と強く言った。すぐに柏原は「じゃ、なんなの?」と冷たい声できいた。愛子はその答えを探したが、口からは出てこなかった。だから弱い声で「言葉では説明できないよ」と言った。柏原はあきれて、首をゆっくりと横に振った。愛子はどうにかして自分の想いを伝えたいと思い、その言葉を探した。しかしすぐには浮かんでこない。
「私の話をきいて」
柏原の声はいつものように冷たい声であったが、愛子を諭すようでもあった。
「私、みんなとは別の高校に行くし、卒業まであと四ヶ月しかない。短い期間だよ。三月なんてまともに授業とかやらないだろうし。冬休みも挟む。そう考えれば実質、三ヶ月くらい」
まばたきをすると長い睫が動いた。
「我慢できる」
我慢? なんで我慢しなくてはならないのか。愛子は「そんなっ」と言うが、すぐに柏原は言葉を重ねた。
「さっきも言ったでしょ。親には知られたくないの。心配をかけたくないの。私が望むのはそれだけ。だから学校だって行きたくもないのに毎日通っている。別に暴力をふるわれるわけでもないし」
柏原は正面を向いて、無表情のまま小さい口を動かした。
「私、我慢できるから」
そんなのおかしい。でも柏原の言葉に強い意志が含まれているのを愛子は感じた。だから何も言えない。
「下柳さんが騒ぎ立てて問題を大きくして欲しくないの」
柏原はわざと『騒ぎ立てて』というような言葉を使って、愛子に嫌われようとしているのかもしれない。
「このままあなたが私に語りかけ続ければ、岸谷さんにだって被害が及ぶかもしれない」
「雪乃に?」
柏原はうなずいた。
「川島さんって二個上にお姉さんがいてね。バスケ部で、リーダーシップが強くてね。岸谷さんってバスケ部だったと思うけど、来年高校に上がったら、何されるかわかったものではないわ」
愛子は「そんな」と言いかけたが、あんな卑劣なイジメをするような人なら、姉の力を使って根回しをするかもしれない。
「あなたのつまらない善意で岸谷さんを傷つけてはならない。そうでしょ?」
愛子が答えられないでいると、柏原はスッと立ち上がった。
「私、帰り、反対方向だから」
愛子もすぐに立ち上がった。
「あっ、そうなんだ。ごめんね。こっちに来てくれて」
柏原は愛子の気遣いを無視して、こう言った。
「私、別にあなたと話したいって思ってないから」
その声は今までで一番冷たく、目付きも睨んでいるかのように鋭かった。でも、本心ではないと愛子は感じ取った。
「もう、必要な時以外、私に話かけないで。私も返事しないから」
柏原はテクテクと階段の方へ歩いていった。愛子は瞬間的に自分のすべきことを悟った。柏原を追いかけて抱きしめる。それが自分のすべきことだ。一歩足を踏み出したが、頭に雪乃の顔が浮かんでしまって足が止まった。柏原は階段を上がり、姿が見えなくなった。でも、まだ間に合う。自分の足はなんで存在するのだろうか? 自分の手はなんで存在するのだろうか? 今、柏原を追わなかったらその存在に意味があるのだろうか? どんなことになったって雪乃はきっとわかってくれる。そう思っているのに、足は動かない。複雑な人間関係は蜘蛛の巣のように広がっていて、愛子の行動を抑制した。
自分が情けなくなって、青い空の下で愛子は泣いた。