現実 06
三時間目の授業がはじまった。英語の授業だ。順番に当てられて長文を一人七行ずつくらい読んでいった。柏原の番になった。流暢であることは、英語の苦手な愛子にもわかった。それに声が綺麗だ。普段は意識的に冷たい声を発しているのだろうか。無機質に英文を音読しているその声は透明度の高いものだった。容姿も綺麗なので、絵に描いたような優等生だ。
しかし次のページになると、その声が一瞬止まる。教室内からクスッという笑い声が聞こえた。その声は二つ。声の主は教科書で顔を隠して教師から見えないようにしている。互いの笑顔を確認するかのように、笑った顔どうしが真横を向いた。笑っているのは、川島とその友達。何が面白いのだろうか。無意味に笑って嫌がらせでもしているのだろうか。
「柏原。そこはザンではなく、ザットだ」
「すいません」
無表情のまま柏原が間違えたところから読み直すと、川島とその友達はまた「クスッ」と笑った。間違ったことがそんなに面白かったのだろうか。別に大した間違いではないし、川島の方がもっと何倍もつっかえて読んでいた。柏原が読み終わって席に座った。つらそうにしている。柏原の表情の変化がすごく小さいので愛子の勝手な思い込みなのかもしれない。しかし教科書を持つ手が震えているのは事実だ。気になって愛子は首を柏原の背中の方に持っていき、柏原の教科書を覗いた。
「えっ!」
思わず大きな声を出してしまった。教師に「下柳、どうした?」ときかれた。愛子がどうしていいかわからずにいると、柏原は「言わないで」と小さい声で言った。だから愛子も教師に「すいません。なんでもありません」と答えた。
柏原の教科書には落書きがいっぱい書いてあった。しかも黒いマジックで大きく書いてあった。『泥棒!』とか『はやく死ね!』とかそんな言葉だけでなく、妙にリアルな男性器の絵も描いてあった。愛子は「ひどい」とつぶやいた。
「気にしてないから、大事にしないで」
柏原はそう小さい声で言うと、小さく手を震わせながら授業を受けていた。愛子は川島に怒りを感じると同時に、この事を先生に言うべきだと真剣に考えた。
授業が終わると愛子は「柏原さん、やっぱり……」と声をかけたが、すぐに柏原の冷たい声と重なった。
「両親には知られたくないの。それ以外のことはどうでもいい」
愛子は本当にそれでいいのだろうかと思いながらも、柏原の気持ちを理解できずに、何も行動することができなかった。
三時間目の後の休み時間。柏原は席をはずした。トイレにでも行ったのだろうか。また話しかけようと思ったが、仕方ないので雪乃の席の方へ向かおうとした。
「下柳、ちょっといい?」
机の正面に人の気配を感じて、見上げるとそこには川島がいた。腕を組んで、ヘビのような細い目で愛子を睨んでいる。柏原に声をかけたことに対して、文句を言いに来たのだろう。愛子はそう予想しながらも、微笑んで「なに?」ときいた。川島は更に一歩前に踏み込んで、愛子の机をバンと両手で叩いた。歪んだ顔を愛子に近づけた。
「みんなには言ってあったんだけど、岸谷の友達には言ってなかったんだけどね」
岸谷とは雪乃の名字だ。
「岸谷があの女のことを嫌ってるみたいだから、言わなくてもいいかなって」
愛子は『あの女』という言い方を聞いて、すごく嫌な気持ちになった。
「みんなにはあの女と話すなって言ってあんだよ。あんた達もそうしてくれる?」
愛子は反射的に「どうしてなの?」ときいた。
川島は「ふぅ」と面倒くさそうにため息を吐くと、説明しはじめた。
「私が取ろうとしていた学校の推薦枠を…………」
「違う」
愛子は少し大きい声を出して、川島の言葉を止めた。
「教科書の落書き、見たよ。なんであんなことができるの? イジメじゃないの、こんなんじゃ」
川島の声も大きくなっていった。
「イジメじゃないわよ! 最初にケンカ売ったのはあの女なんだから! 私が行きたい高校をずっと前から決めてたのにさ! それなのに教師に色目を使ってあの女は私から希望を奪ったんだよ!」
色目を使う? そんな子には見えない。否定したいが、愛子は柏原のことをよく知らない。
「真実は知らない。でもね、私の目から見れば、あなた達のやっていることはイジメにしか見えないわよ」
愛子は興奮して立ち上がった。川島は愛子の胸倉を掴んだ。川島は背が高い。170センチを軽く超す。愛子とは20センチくらい身長差があるので迫力がある。それに釣りあがった目はヘビのように鋭く、歪んだ口には悪意が表れている。なぜこの人はこんな顔付きになってしまったのだろうかと哀れみながらも、愛子の体は恐怖で震えた。
「イジメじゃねぇって言ってんだろ!」
愛子は怖かったが、視線を川島の目からそらさなかった。自分がいかに脆弱であったとしても悪意には決して負けてはいけない。そんな正義感が心の中から湧き上がった。
すると雪乃が歩いてきた。
「川島。柏原にさぁ、やりすぎなんじゃねぇの? 事情はよくは知らないけどさぁ」
川島は愛子の胸倉を掴んだまま、首を雪乃の方に向けて怒鳴った。
「知らないなら黙ってろよ!」
雪乃は「ふっ」と鼻で笑った。
「もう何ヶ月やってんの? 十月に推薦の内定が決まって、今が十二月。もう二ヶ月くらいずっと続けてんじゃん。知ってると思うけど、うちの学校、イジメが見つかるとやった方は退学だよ? それに柏原の親って金持ちでさ、すげぇ寄付とかしてるらしいじゃん。私立なんだから何されるかわかんねぇよ。そろそろ手を引きなよ」
愛子の胸倉を掴んでいる川島の手に、雪乃は触れた。
「まぁ別に、柏原のことはどうでもいいんだけどさ」
雪乃は川島の手を掴み、その手に力を込めた。
「いたっ!」
川島は悲鳴のような声を一瞬だけあげると、その手を愛子から離した。それでも雪乃は強く握り続けた。川島が雪乃の手から逃れようとしても逃れられない。雪乃が自分の方にその手を引き寄せると、川島はバランスを失い、雪乃に近づいた。雪乃の整った顔から一切の表情が消えた。人間の悪意を象徴するような川島の顔よりも、雪乃の表情のない顔の方が何倍も危険な雰囲気をかもしだしていた。
「愛子につまんねぇこと言ったら、私、黙ってねぇからな」
雪乃は静かな声でそう言うと、川島の手を放り投げるように離した。川島は掴まれていた手を逆の手でさすりながら、「チッ」と舌打ちして自分の席に戻った。
「ありがと…………」
愛子は安心して涙ぐんだ。服の乱れを雪乃が直してくれた。
「川島はつまんねぇ奴だけど、柏原だってそんなに変わらない。あんな奴のこと助けることないよ」
目に涙をためたまま愛子は「柏原さんって、悪い人には見えないよ」と強い視線で雪乃にうったえた。
「少し話せば性格が悪いのわかったでしょ?」
柏原は無愛想ではあるが、『性格が悪い』という評価は違うと思った。
「少し……変わった子だけど…………」
雪乃は諭すような口調で言う。
「変わった奴ってさ、嫌われるもんじゃん。女子校通ってれば、そんなの三日でわかるじゃん。それなのに柏原は自分を変えようとしなかったんだからさぁ。それはもう柏原が選んだ道としか言いようがないよ」
残酷な言い方をすればそうなのかもしれない。
「でも…………」
すぐに雪乃は言葉を重ねた。
「同情で話しかけたって、友情にはならないよ」
反射的に「同情って、そんな……」とつぶやいた。柏原と話していてだんだんと同情ではない感情が芽生えていたと思う。でも、その感情は友情と呼べるまでには達していない。だから雪乃の言葉を否定できなかった。
廊下から柏原がやってきた。柏原の席のところに雪乃が立っていた。柏原は冷たい声で「どいて」と言った。雪乃は柏原が言うとおりにどいたが、愛子に強い言葉を投げかけた。
「こいつ、私らのやりとりを廊下から見てたんだよ。それなのに『どいて』だってさ。こんな奴のこと守ってやる必要なんてないよ」
柏原は机の中から教科書を取り出し、「助けてなんて、誰も頼んでない」と目を合わせずに声を発した。
雪乃は「ふんっ」と苛立ちを表すと、スタスタと自分の席へ戻った。