現実 05
二時間目の授業は先生の体調が悪いという理由で自習になった。この学校のほとんどの生徒はエスカレータ式で高校に進学するので、中学三年生とはいっても受験生という感じではない。柏原のように別の学校の推薦が決まっている人もいるが、一般受験で他の私立や国公立を受験する人は非常に少ない。なので、自習といっても勉強をしている人はあまりいない。クラスメイトの大半は集まっておしゃべりをしている。生徒達を監視するために新任の先生が黒板の前に座っているが、うるさくしなければ教室内を移動しても怒られない。
付属高の入試で不合格になることはないのだが、あまりにも悪い点を取ってしまうと入学早々に補習授業を受けさせられる。成績のあまり良くない雪乃は菜々に勉強を見てもらっている。愛子も雪乃の席の方に向かおうとしたが、隣で美術の本を読んでいる柏原が気になって、浮かした腰を椅子に戻した。
「絵が好きなの?」
柏原の体が一瞬ピクッと動いた。少しだけ顔を愛子の方に向けて「ええ」と小さい声で答えた。するとまた顔を本に戻してしまう。
「描くのが好きなの? 見るのが好きなの?」
今度は体をピクッと動かすこともなく、顔を動かすこともなく、「両方好き」と答えた。
「あっ……」
三つ前の席にいる川島が、ヘビのような釣りあがった目をこちらの方に向けている。愛子はそれに気付いた。愛子が『あっ』と声を出したので、柏原は横目でチラッと愛子を見た。
「あぁ、ごめんね。なんでもない」
柏原がイジメられているのは、本当だったんだなと愛子は確信した。川島の視線に負の感情を感じながらも、それに屈してはいけないと思った。
「どんな絵を描くの?」
柏原も一瞬川島の方に顔を向けた。川島の視線に気付いたのだろう。
「色々描いてる。デッサンが多い。描くのは部屋の中にあるものか、家の庭にあるもの」
言葉は少なく、その声に人を避ける冷たさのようなものを感じた。それと同時に外見に似合った綺麗な声をしているなと愛子は思った。
「柏原さんの描いた絵、今度見せてよ」
柏原は首を横に振った。すぐに愛子は「どうして?」ときいた。
「見せても面白くない」
愛子は微笑んだ。
「面白くないかどうかは、私が決めるんじゃないの?」
少し話してみても柏原の表情は全く変わらない。
「見せるか、見せないかは、私が決めてもいいでしょ」
気なる子だからと言っても、ここまで拒絶されれば普通はあきらめる。しかしイジメられていると聞いたからだろうか、川島に監視されているにも関わらず、あきらめてはいけないと思った。
「じゃ、私に絵を見せたくない理由をちゃんと教えてよ」
柏原は持っていた本をパタンとたたんで、はっきりとした口調で答えた。
「きっと見せたら、下柳さんは面白くないって思う。これが理由」
自分の感情を勝手に決められるのは気持ちの良いものではない。すぐに愛子は言い返した。
「思わないわよ」
少し強い口調だった。
「私の絵を見てもないのに、なんでそんなことが言えるの?」
柏原の声も少しだけ強くなった。多少険悪になったが、さっきまでの冷たい声よりは随分とマシだ。
「だって私は柏原さんの絵を見たいって思っているの。上手いとか下手とか、そういうふうには見ないもの」
柏原は苛立って両手を軽くにぎった。
「そんなんだったら、余計に見せたくない」
「どうして?」
「私は日々絵が上手くなりたいって思って描いているの。それなのに上手いとか下手とかは関係ないだなんて、そんなふうに見られたくない」
愛子は自分の気持ちが伝わらずに少し顔をムッとしたが、伝えることをあきらめなかった。
「柏原さん、親戚とか身内に小さい子っている?」
柏原はまた本を広げようした。しかし愛子が妙な質問をしたので手を止めて、細い眉をピクッと動かした。なんでこの人はこんなことを聞くのだろうかと、そう思っているのだろう。恭子は小さい口を開いた。愛子がずっと柏原のことを見つめているので、仕方なく答えることにしたのだろう。
「いるけど、それがなに? いとこのお姉さんにお子さんがいて、四才と二才」
愛子は片方の肘を机の上に突き出すようにのせて、体を柏原の方にひねった。
「その子達と会いたいって思うでしょ?」
柏原は「もちろん」と短く答えた。
「その子達が普通の子よりも可愛い顔をしていても、そうじゃなくても、柏原さんは会いたいって思うんじゃないの?」
これも当然だ。急変した会話の流れに戸惑いながらも柏原は答えた。
「その子達の顔は普通よりも可愛い方だと思うけど、別に顔なんて可愛くなくたって会いたいって思うでしょ?」
愛子はニコッと口を横に広げて笑った。
「それと同じよ」
柏原は冷たい視線を愛子に向けて、眉をしかめた。愛子の言葉の意図を理解できていない。その声なき疑問に愛子は答えた。
「私はね、柏原さんの絵だから見たいって思ったの。だから例え下手でも面白くなくても構わないの。柏原さんがいとこのお姉さんの子供と会いたいって思う気持ちと、私が柏原さんの絵を見たいって思う気持ちは一緒なの」
柏原は一瞬目を大きく開いたが、すぐにいつもの冷たい目付きに戻った。プイッと顔を正面に向けて、本を広げた。
「わかった。言い方を変える。見せたくない理由はない。見せたくないから見せない」
早口で滑舌よく柏原はそう言うと、愛子とは逆側に本を傾けて、体の方向も同じよう傾けた。
人付き合いの苦手な人みたいだけど悪い人ではないな、と愛子は思った。少しの間、傾いた柏原の姿を微笑んで見ていた。