現実 03
一番後の窓側の席に雪乃がいる。授業がはじめるまで愛子達は雪乃の席に集まっておしゃべりをする。隣の席の子は気を遣っているようで、授業が始まるまで別の席に座ってくれる。
雪乃は左手でワシワシと頭をかいて、真っ直ぐで綺麗な髪をクシャクシャにしていた。いつものように宿題を写しているのだろう。雪乃は『勉強も嫌いだけど、宿題はもっと嫌い』と言っていて、自分ではやらずに授業の前に写すことが多い。写しているだけでもこんなにイライラするのだから、もし自力でやったとしたら気が狂ってしまうだろう。
雪乃は運動神経がよく、バスケ部に入っている。愛子はバスケのルールをちゃんと理解していないが、何回か試合を見に行ったことがある。雪乃は一番多くゴールを決めていたし、他の子達が何回か交代しているのに雪乃はずっと試合に出続けていた。身体能力が高いのは、スポーツに限った話ではない。女子中だからかもしれないが、女の子どうしで取っ組み合いのケンカをする人もいて、雪乃もその一人だ。中三になってからはだいぶ落ち着いたみたいだが、二年まではよくケンカをしていた。教師には手をあげたりはしないが、そういった噂が広がっているようで、雪乃を前にするとおびえる教師もいる。
大人しく可愛い子よりも、釣り目で整った顔立ちの雪乃の方が女子中では人気があるようだ。ラブレターをもらったりする。もちろん愛子は友達である雪乃にラブレターを渡したりしないが、もし渡すとしたらその便箋に書く内容には困ったりしないだろう。小さく白い顔。黒く長いサラサラの髪。明るいピンク色の唇。健康そうな細い体。それでいて胸や腰はやわらかそうで、うらやましい体形をしている。身長は愛子よりも少し高いくらいなのでバスケの選手としては小さい方だ。多少コンプレックスを持っているようで、そんなところも可愛く思えてしまう。
まだ授業がはじまるまでには十分くらいあるので、愛子は雪乃のところに向かおうと思った。机のわきに鞄をつるすと、隣の席に座る柏原の姿が目に入った。愛子は特別に仲が良い友達でないと、あまり自分から声をかけない。しかし自分の気に入った子には積極的に声をかけるのだから、人見知りというわけではない。菜々や雪乃と友達になったのも、愛子から声をかけたからだ。
柏原がまばたきすると厚い二重のまぶたが動き、長い睫がパタパタと上下する。こんな綺麗な子でも、ちゃんと生きているんだなぁと、愛子は妙に感心した。柏原は本を広げ、イヤフォンを耳につけて、話しづらそうな雰囲気をかもしだしている。イヤフォンからは音が漏れていないので、それ程大きな音で聞いていないと思う。声をかければ聞こえるだろうし、最近席が隣になったのだから話しかけても良いだろう。真横に振り向くと柏原の無表情な顔が目に入り、多少戸惑ったが「お、おはよう」と挨拶した。考えてみればさっきも挨拶をしたので、二回挨拶をしてしまったことに愛子は気付いた。柏原は一瞬チラッと愛子を見て、軽くうなずいた。しかしすぐに持っている本に視線を戻しまう。
「はじめて席が近くになったね」
柏原は少し間を置いてから、「覚えていない」と答えた。その声は冷たく、とても小さかった。きっと隣にいる愛子にしか聞こえていないだろう。
「柏原さん、下の名前、なんていうんだっけ?」
面倒くさそうに愛子の方に顔を向けて、「恭子」と答えた。やはりすぐに視線を本に戻してしまう。
「わ、私は愛子っていうの」
柏原からの言葉は何もなかった。それでもひるまずに愛子は話しかけた。
「フルネーム、柏原恭子っていうのかぁ。良い響きだね」
柏原は褒められても「別に。普通」と短く否定した。
「血液型って何? B型?」
怒ったのだろうか。何秒待っても柏原からの答えは返ってこなかった。
柏原が友達と話しているところをあまり見たことがないし、笑っているところも見たことがない。みんなとワイワイするのが苦手なんだろうなと、愛子は勝手にそう思った。だから柏原の態度を気に止めることもなく、それ以上話しかけなかった。しばらくしてまた話しかければいいかなと。
愛子は雪乃の席の方へ向かった。雪乃の前の席に座り、「おはよう」と言うと、雪乃はなぜか「うん」と肯定の言葉で返した。雪乃はまた髪がクシャクシャになるくらいに頭をかいた。ノートを写すことに、なんでそんなに悩む必要があるのだろうかと不思議に思う。雪乃の髪には張りがあるので、クシャクシャの髪は何回か手で撫でると元の整った形に戻った。愛子はちょっとはねている自分の後ろ髪にふれて「うらやましい」とつぶやいた。
菜々は他の子達と会話をしていたが、それを終えると愛子の隣に座った。
「あ、あの、愛子ってさ…………」
「ん?」
「えっ、いや、なんて言うか…………」
菜々は言いづらそうにしている。菜々は神経質な性格なので、時折こういった態度を見せる。詳しく聞いてみると取るに足らないことがほとんどなので、またつまらないことで悩んでいるのだろう。急かしても悪いので黙って菜々の言葉を待った。菜々は決心するかのように話しはじめた。
「あ、えぇっと、愛子って柏原さんと仲良かったっけ?」
愛子は妙なことを聞くなぁ、と思いながらも「えっ? あぁ、前の席替えで隣になって」と声に出してみたが、『仲がいいか?』という質問には即答できなかった。なんとなく声をかけただけで、話もあまり弾まなかった。答えに迷っていると、雪乃が言葉を挟んだ。
「柏原って、感じの悪い子だよね」
雪乃の声はいつもより低かった。愛子は柏原と少し話してみて人付き合いの下手な子だとは思った。しかしだからといって『感じの悪い』という評価にはならないだろう。愛子は疑問に思い、雪乃を見つめた。
「さっき愛子が挨拶しても、あの子、黙ったままだったじゃん」
一日に二度も『おはよう』と言ってしまったので、二回目は返事がなくても仕方がない。愛子は慌てて「いや、でも、うなずいてくれたよ」と訂正した。
「あっそう」
雪乃は宿題を写し終わったようで、窓側の壁に背をあずけた。柏原のことを話したからだろうか、少し機嫌を悪くしている。なぜ機嫌を悪くしているのかを、菜々が説明してくれた。
「雪乃は柏原さんのこと、あんまり好きじゃないからね」
雪乃は女子中学生のねちっこい部分が全くなく、『誰かが嫌い』とかそういう話をあまり聞いたことがない。だから愛子は意外に思った。
「そうなの?」
「いやぁ、柏原かぁ………… 嫌いってわけじゃないけどさぁ」
雪乃は見下げるような視線で、廊下側の席に座っている柏原を眺めた。
「少なくても好きではないね」
愛子も柏原を遠目で眺めた。廊下側の一番後ろの席でずっと表情の無い顔をしている。誰かが話しかけたりもしない。耳にイヤフォンを付けているから当然と言えば当然だ。西洋画の本を読んでいる。背筋をピンと伸ばして、ページをめくる仕草も上品だ。教室は騒がしいのに、まるで図書館にいるかのように本を読んでいる。多めの黒い髪を後の方に流して、その髪は背中の中心くらいまである。枝毛とは無縁であるかのような光沢のあるストレートで、前髪をきちんと眉のところで揃えている。二ヶ月おきくらいにしか美容院に行かない愛子の髪型とは随分と違う。
「良くない噂もあってね」
菜々が説明を付け加えた。
「うちらってほとんどエスカレータ式で高校に進学するけど、川島さんが有名私立の推薦を取ろうとしていたらしくてね」
川島とはこのクラスの番長的存在で、ワガママで強引なところもある。愛子は苦手にしている。
「川島さんの言い分だと、その推薦枠を柏原さんが奪ったって言うの。柏原さんの家ってお金持ちみたいで、寄付金とかも多く出しているみたいで……その影響もあったって。それに…………」
菜々は言葉を止めた。愛子が「ん?」と言って菜々の瞳を覗きこむと、言葉を続けた。
「田代先生っているでしょ。数学の。その先生と柏原さんが、そのぅ、なんていうか、男女の関係があるって、川島さんは言うの。それで推薦をとったんじゃないかって」
雪乃は「ふっ」と鼻で笑った。
「そんなのは川島の作り話だと思うけどね。川島が柏原よりも成績が良いってんなら、そんな話もあるかもしれないけどさ。そもそも川島ってそんな頭良くないし。噂にしても程度が低いってもんよ」
菜々は戸惑いを含ませながらも、「な、なんか良くないって思うんだけどね」と声に出した。
「『柏原のこと、無視しろ』って、川島さんがクラスのみんなに言ってるらしくてね」
雪乃は耳の穴を指でかきながら、「いやだねぇ、女子校って」と他人事のように言う。雪乃は女子校という妙な空間を客観的に見ているのだろう。道端で喧嘩している猫と同じように思っているのかもしれない。しかし愛子はそうではない。そういう話を聞くと耳をふさぎたくなる。菜々の言うことを信じたくないので、「本当なの?」ときいた。もちろん菜々のことを疑っているわけではない。
菜々は小さい声で「うん、そうみたい」と答えた。
「全然、知らなかった…………」
しかしなぜ愛子だけが知らなかったのだろうか。その疑問にも菜々が答えてくれた。
「さすがの川島さんも、雪乃には命令できなかったんじゃないかな。いつも雪乃と一緒にいる私や愛子にも命令できなかったみたいだしね。愛子が知らないのも仕方ないよ」
愛子には別の驚きが生まれた。背筋にゾクッとくるような嫌な感じだ。
「もしかして柏原さんって、ずっとイジメられているの?」