二日目、午前の話
死神の作った世界で、分かったことがいくつかある。
一つは、睡眠を必要としないらしい。死神曰く、この世界における俺という存在は、魂だけ、と説明づけるのが手っ取り早いそうだ。
じゃ、現実世界の俺はどうなっているのか、と尋ねたら、死神とは別の存在がきちんと管理をしてくれているから問題ない、と返された。まぁ、仮にこれが嘘だとしても、死に方が飛び降り自殺じゃなくなったというだけだ。
そして、もう一つ、この理論のからいくと、食欲も無くなってしまった。常に、満腹状態であるという訳ではない。だから、今、大盛のラーメンを出されたとしても完食できる自信がある。
最後にもう一つ――これについては、本来、分かりたくなかったことでもある。しかし、自分の中で言葉にし、認めなくてはいけないのだ――俺は、死神に恋をしてしまった。
理由は、一目惚れだ。それ以上でも、それ以下でもない。
俺は、この三つのことを心の中で考えながら、午前五時のあぜ道を歩いていた。日が昇り始め、世界本来の空気と風を堪能し、ケロケロと鳴く蛙とニコニコと笑いながら他愛のない話をする死神を交互に見ていた。
「それから、死神は――あれ? どうかしたんですか?」
「いや、なんでもない」
死神は、口を尖らせて、死神の休日の話を中断する。
「もう、二日目ですよ? 今日も、何もしないんですか?」
「何かはするよ。 多分ね」
あぜ道を歩いていると少し先に雑木林が見えた。俺は、遠い昔、母方の祖母が生きていた頃、夏休みは毎年、祖母の家に泊まりに行ってカブトムシを採っていたことを思い出した。
「とりあえず、今日は、カブトムシ捕まえよう」
あぜ道を歩くスピードはだんだんと速くなり、いつの間にか走り出していて、背後から聞こえる死神の声にも足は止めなかった。
雑木林に辿り着くと、思っていたほどの高揚感はなかった。遠い昔の俺にとって、雑木林は魔物の巣窟となっているダンジョンのようなものだった。俺は、剣という名の網と盾という名の虫かごを装備して、魔物という名の虫たちと戦う。
青々とした葉に日差しが遮られ、土や木の匂いが興奮を煽る。踏みしめるたびに音を立てる地面や飛び立つ蝉は、最高だった。
足元にあった木を蹴飛ばしてみる。だが、今の俺にとって木は、ただの木でしかなった。
「カブトムシは、あの木とあの木を蹴るといますよ」
死神は、走って乱れた服を整えてから指をさす。俺は「ありがとう」と呟いて、木を蹴った。すると、死神の言った通り、カブトムシとノコギリクワガタが一匹ずつ落ちてきた。落ち葉の中でバタバタと動く虫を見ても、当時の興奮を取り戻すことはできなかった。
「なぁ、死神って成長すると自分じゃなくなるのか?」
死神は、首を傾げる。
「死神は、そもそも、成長という概念がありません。 でも、私に何を聞きたいのかはわかります。 大人になると誰しも、現実を知ることになるんです。 子供の頃に憧れていたヒーローをいつしか馬鹿にするみたいに」
俺にとって、ダンジョンのような存在だった森は、ただの森に変わってしまい、カブトムシやクワガタも虫というカテゴリーに投げ込まれてしまったようだ。
ならば、俺に死後の世界に興味を持たせているのは、過去の自分なのだろうか。あまりにも現実を知りすぎてしまい、夢を奪われた世界をやり直そうとでもいうのだろうか。
その時、心を見透かされたかのようにバケモノが尋ねた。
「自殺の動機は見つかりましたか?」
「見つからない」
蝉時雨が、嫌というほど聞こえるそんな午前だった。
この世界の家である古民家に戻った後、二人で、また、縁側に座りながらアイスを食べた。その頃には、夏の日差しはいつも通りに照り、青空には入道雲がある。
俺は、入道雲を見ながら、死神の作った世界を再認識させられていた。入道雲は、夏の夕立を告げる合図と言ってもいい。だが、夕立が訪れる気配はなく、一日が終わる。
隣でアイスを舐める死神に尋ねた。
「この世界ってすごいね。 改めて思うよ」
「なんですか急に? 生きる目的を見つけたんですか?」
「いや、まだだよ。 そうだ、一つ質問してもいいかな?」
死神は、作ったような笑顔で頷く。
「この世界に、何かを足すことってできるの?」
「はい、出来ますよ! でも、現実的な物しかできませんが」
「じゃ、二つくらい足してもらってもいいかな? 誰もいない海と人のいる学校。 あ、でも、学校にいる人は、俺と君を認識できないようにしてほしい」
死神は、顎に手を置きながら眉を顰め、首を傾げる。
「人のいない海は分かりましたけど……学校はどうしてです?」
「学校に人がいなくちゃ非日常的だろ? でも、この世界にいる時は、人間には誰にも干渉されたくないんだ。 皆身勝手なんだよ、俺を含めて……」
死神は、まだ、理解できないように首を傾げている。
当たり前だ。きっと、この感情は、人にしか理解できないと思う。群れをつくっていなくては生きていけない種族だからこそ感じてしまう疎外感なのかもしれない。
学校というものはいい例だ。俺は、そんな物が汚れのように感じ嫌いで仕方がなかった。だが、それを拒んでしまえば、俺自身も拒まれてしまう。
でも、この世界では、人に顔色をうかがうとかはどうでもいい。ただ、夏の季節に学校へと行き、夕暮れ時の図書室で時間を無駄遣いしたいするだけで十分なのだ。
死神は、唸りながらも「わかりました」といい、空を見上げながらぶつぶつと何かを呟く。彼女の仕事が終わるまで、俺も空を見上げていた。憎いほど晴れ渡り、偽物の入道雲が美しい空だった。
「終わりました。 学校の先に、海を作りました。 きっと、気に入ると思いますよ」
彼女の笑顔は、機械でプログラムされた一ミリの狂いのない美しい笑顔だ。とても量産的で、マニュアルの通りのよう……だけど、俺にはそういう笑顔が丁度良かった。
縁側をおり、彼女に手を差し出す。
この手をただの親切心とだけ捉えて欲しかったのだが、死神は、にこりと微笑みだけでその手を握ることはなかった。
俺は、死神の少し後ろをついていった。
夏の田舎道を歩いていると、突然に、潮の香りがした。俺と死神は、顔を見合わせると、歩く歩幅が大きくなる。気づいたときには、競い合うようにして走っていた。
すると、すぐに海が見えた。どこまでも無限に続き、目を細めて奥を見ても島の一つも見えやしない。それから、空に聳え立つ入道雲が、海から生えているみたいに形を崩さず目の前の壮大なキャンバスに描かれている。
台風もゲリラ豪雨もお天気雨すらなく、山や雑木林、海に恵まれた環境が、この日本にあるのだろうか。そんなことを考えながら、隣を見ると死神と目が合った。
何度も言うように、この世界は死神が作ったんだ。ならば、その世界にいる俺の心を読み取るくらい簡単なことだろう。
とても誇らしげに鼻を鳴らし、笑顔で「余裕です!」と胸を叩く。
あぁ、この死神は、非の打ち所がないほどに素晴らしい。どう称賛しても足りないくらい、彼女が巨大な存在に見えた。
キャンバスの絵がそれを物語っている。
俺が、想像していた、海、と言うのは、白い砂浜に青い海と空の曖昧な境界線がずっと続く場所を想像していた。もちろん、俺が注文した通り、全く人のいない海だ。
だが、本心から言えば、そんな海を俺は望んでいなかった。白い砂浜も憎いほど美しい青空も必要ない。
ただ、俺の自殺の動機、または、生きる意味を探すために必要な海というのは、海と国道の境目のような防波堤に寝そべり、テトラポットに打ち付ける波の音、それから、ウミネコの声を聴きながら目を閉じていられる、そんな海だ。
といっても、こんなに具体的な海を上げられたのは、現物を見たからなのだが。
車の走っていない国道を渡り、防波堤へと上がる。
潮風が、歓迎するかのように吹き付け髪を靡かせた。
「死神って、こんなに優しい存在なんだな」
俺は、波打つ水面を見ながらつぶやいた。
「そんなことないですよ。 死神は、とても冷酷です。 でも、褒められるのはうれしいです」
死神は、「これ、どうぞ」と言い、俺の首にひんやりと冷えた缶のサイダーを当て、思わず声が漏れる。
お礼を言って受け取ったサイダーをのどに流し込んだ。ヒリヒリと痛い感覚は嫌ではない。口の中に残る甘ったるいさも全く嫌ではなかった。
全てが、目の前の海とこれからの議論を彩る装飾としか思えない。
俺は、飲み終わったサイダーを潰し、防波堤に寝ころんだ。耳が捉える波の音と目が捉える空を感じていると水中の中から空を見上げているような気分になった。でも、それをウミネコの声が否定する。
すると、死神は、俺の隣に腰を下ろしゆっくりと口を開いた。これも、俺の心を読めているからなのだろうか。
「人間は、こんなもので生死の判断を出来るんですか?」
「どうだろうね。 少なくとも俺は、こんなもので生死について考えたいと思っている」
「わかりません」
「わからなくていいさ。 人間なんて何よりも強欲で、臆病で、弱い存在なのだからさ」
俺は、ずっと空を見ている。だから、隣に座る死の象徴の表情を見ることはできない。だが、彼女が、眉を顰め深く考え込んでしまっているのは容易に分かった。
人間という存在を別の存在が受け入れるのは簡単ではないと思う。まして、死神という存在が人間を受け入れられるわけがない。
ここから先は、俺の偏見だ。死神と人間の比較を勝手に語らせてもらう。
死という抗いようのない恐怖を人間は知っている。だから、死にたくないと懇願したり、第三者の死を前にして涙を流すことが出来る。
だが、時に人間という者は、その死に自ら手を伸ばす存在でもある。
死神を悩ませる疑問はこれなのだろう。
死の恐怖を知っている存在が、思想など関係なく、誰しも死に縋りつこうとする可能性があるのだ。
俺は、死神に聞いた。死神の価値観を聞いてみたかったのだ。俺の今後を判断するいい材料になりうるかもしれない。
「死神から人間ってどう見えているの?」
隣に座る死神の方を見た。彼女は、人差し指で顎を叩きながら空を見上げ考えていた。
打ち付ける波の音が三回聞こえた時、死神は口を開いた。
「とても憐れで、愛らしく思います。 それから、羨ましいです」
意外な答えだった。さっきも言った通り、人間は死を望んでしまう存在だ。それを死神が羨ましいと思うなんて。
「どうしてそう思うの?」
「なんていえばいいんでしょうね……仲間、友達、家族。 とにかく、好きな人の隣に居られるじゃないですか」
俺は、死神に送っていた視線を空に戻し言った。
「死神は、孤独なのか?」
「孤独ですね。 救いようがないくらい」
「君に、家族とか友達はいないの?」
死神は、何かを答えようとはしなかった。空に送り続けている視線のせいだろうか。ずっと聞こえる波の音が彼女の涙のように感じられた。
声を殺して泣く彼女に言葉をかけてやろうと体を起こすと、死神は笑っていた。切なく見える微笑みを浮かべていた。
「私は、精子と卵が受精して細胞分裂を繰り返し生まれてきたわけじゃないんです。 上手く説明できないんですけど、私は、気づいたときにはこの姿で死神をしていたんです。 でも、友達はいます。 彼女とは長い付き合いです」
友達、という言葉を出したときの彼女の顔は、嬉しそうだった。死神の孤独を紛らわせてくれているのは、その子の存在が大きいのだろう。
「君は、俺と一緒にいて楽しい?」
死神は、にんまりと無垢な笑顔を向けて答える。
「とても楽しいです。 明日で、三日間が終わってしまうのが惜しいくらい」
俺は、「そう」と素っ気なく答え、目を瞑った。
彼女の言った言葉を何度も頭の中で呟いた。そして、死神に恋をしてしまっている自分が憎くて仕方がなかった。
この世界は、死神が作った世界だ。きっと、彼女は、俺の心を読んでいる。だから、あえて、それについて触れない理由もわかっている。
俺と初めて会ったとき、彼女は言っていた「死神は、死人の案内人」だと。俺と死神の関係は、死人と案内人であって、それ以上でもそれ以下でもない。
残酷だが、これが現実だ。
俺は、彼女を愛してはいけないし、彼女も、俺に愛されてはいけない。
しかし、もう死ぬのだ。どうだっていい。
寝そべっていた体を起こして、死神に頼んだ。
「今日は、もう、終わりでいいよ。 日暮れ前くらいに時間を進めてくれないか?」
死神は、少しだけ切なそうに微笑み「わかりました」と頷く。
晴れ渡っていた昼前の世界の温度が落ち着き始め、蝉の声がヒグラシの声に変わった。
「さ、学校に行こう。 そこで少し話をしよう」
俺は、立ち上がり死神に手を差し出す。死神は、その手を見て、一度、きゅっと口を結んだが、ガラス細工を触るようにゆっくりと手を取った。でも、握ることはなく、立ち上がるための支えとして。
「昨日、今日って、いっぱいお話したじゃないですか」
彼女は、イタズラな笑顔で笑う。
「嫌だったか?」
「いえ、全然」
「じゃ、学校に行こう」
俺と死神は、海と夕日に背を向けて学校を目指した。
誰からも認識されない学校に向かうのは、少しだけ緊張した。