一日目の話
死神に命を預けるというのは、人を殺せるノートを貰えるとか世界を救うヒーローになるなどという話ではなく。死神の作った世界で、三日間過ごし、自殺の動機を見つけるという合宿のようなもののようだ。
その話を聞き終わる頃には、フェンス越しにいる女子高生が<死神>であると自然なくらい受け止めることが出来ていた。
俺はいま、屋上の高いフェンスを越えた淵の部分で、彼女の指示を受け目を瞑っている。
視覚を閉ざしてしまうと、冬の寒さ、というものが研ぎ澄まされ体に伝わった。刺すように吹きつける風やハラハラと頭に落ちる雪、残酷なほど美しい季節だ。
でも、なぜだろう、死神の声に耳を澄ませていると冬の残酷な美しさが消えていくように感じた。また一つ、死神の声によって冬が消されてしまった。
「じゃ、そのまま、一番生きたい世界を思い描いてください。 季節とか、場所とか」
一番生きたい世界などと言われても、すぐに思いつくことができず、目を開けようとすると「目は開けないでください! 待ちますから」と言われ、しぶしぶ手を擦り合わせながら考えた。
とにかく、この寒さをどうにかしよう。死神に三日間命を預けると決まったのなら、冬の寒さも廃ビルの屋上も必要ない。
なら、夏がいい。俺は、四季の中で夏が一番好きだった。でも、照りつける太陽や澄んだ青い海はあまり好きじゃない。
俺が好きな物は、ヒグラシの声が聞こえる夕暮れの理由もなく泣いてしまいたくなるあの時間と朝方の入道雲が空に浮かび、蝉時雨がそれを彩っているときだ。それから、放課後の学校も好きだ。誰にも干渉されず、図書室で日が暮れるまで本を読んでいるのもいい、進み続ける時間を無駄遣いする感覚が堪らなく好きだった。
俺は、今、一番生きたい世界の想像を止め「終わったよ」と死神に声をかけた。だが、死神から声が返ってこない。「目を開けていい?」と尋ねても返事はない。
しばらくどうしようか悩んだが、じんわりと遠くから聞こえてきた蝉時雨に目を開けないわけにはいかなかった。
目を開け、驚愕し歓喜の声を漏らしてしまった。
寂れた廃ビルの雪の降る鋭利な刃物のような場所が、夏の蝉時雨が聞こえ、空には入道雲が描かれている田んぼのあぜ道に立っていた。
この夏の情景は偽物ではないらしい。蝉時雨の喧騒に煽られ頬を伝う汗も熱中症になってしまいそうなほど強い日差しも全てが本物だった。
そんなおかしな状況を楽しむように、俺が、田んぼで泳ぐオタマジャクシを眺めていると死神から声をかけられた。
白いワンピースに麦わら帽を被った死神は、可愛らしくもあった。
「あなたは、ここで三日間過ごしていただきます。 その三日間で、自殺をする動機を見つけるか生きる目的を見つけてください」
とても業務的な言葉と自然な笑みを浮かべる死神の髪を靡かせる風を合図に俺の三日間が始まった。そして、三日後、俺は、最良な選択をすることになる。
* 一日目
死神の力で俺の望む夏の三日間を与えられ、厚いコートとマフラーを脱ぎ、死神の用意した夏服へと着替える。露出した肌に吹く夏の風は、どこか懐かしくもあった。
俺は、誰も住んでいない古民家の縁側で麦茶を飲みながら、これからを考えた。
だが、何も考え付かなかった。
死神の不思議な力に魅せられた興奮の余韻は消えきっていないのだが、これから何をするべきなのか考えるたびに、それらは遠いどこかへと追いやられていく。
俺は、蝉時雨に埋もれてしまいそうな声量で死神に尋ねた。
「これから、何をすればいいんだ?」
「自殺の動機か、生きる目的を探してください」
機械的にそればかりを繰り返す彼女が無機質なロボットのように感じられ隣を見た。だが、彼女は、死神とは考えられないほど可愛らしい笑みを浮かべている。
死神などという不幸の象徴のような存在とは対照的な笑顔を見ていると彼女を抱きしめたくなった。何も言わずにぎゅっと抱きしめ、彼女に拒絶されたいとさえ思ってしまった。変な性癖があるわけではない。死ぬことに興味を持ってもらった自分を否定して欲しいのかもしれない。
でも、そんなことを頼めるわけがなく質問を変えた。
「生きる目的を探すためには、どうすればいいんだ?」
死神は、顎に手を置き数秒ほど唸ってから口を開いた。
「そうですね……趣味を見つけるとか、悪と戦うとか、誰かを愛するとかですかね」
死神には悪いが、提案されたものの全てに納得ができなかった。
俺は、死んでみたらどうなるのか、というおかしな夢を抱いてしまっている。だが、それをおかしいと思えるほどには理性を持っているし、精神に異常があるわけではない。
厳密にいうのなら、この夢は、自分自身のものでないような気がするのだ。
俺の本来の夢は、死ぬことを夢に持った誰かの夢を叶えること、のほうがしっくりくる。
そんなことを考えていると死神に尋ねられた。
「怖いんですか、死ぬことが」
「恐怖心はないよ。 ただ、なんていうのかな、死んだところで何も手に入らないような気がするんだ」
嘘ではない。死ぬことに対して一切の恐怖心は抱いていなかった。今ここで銃口を向けられたとしても麦茶を飲み続ける自信がある。
俺が言いたいことは、今、死んでしまったら隣にいる死神に抱いてしまったこの感情を曖昧にしてしまいのが嫌なのだ。
与えられた三日間の初日は、ただ、死神と縁側でゆっくりと変わる夏空を見ながら語り合うだけだった。