龍虎
「龍虎」
長さが少し足りないカーテンの隙間から、吐き出されたFAX用紙のように朝日がベッドシーツへ広がっている。見慣れない、ピンクのシーツのさらりとした感触。まぶしさに、顔を顰める。
コウジに背を向けて寝てる見知らぬ女の白いうなじが、白魚のうろこの如く光っている。
毛布で隠し切れてない、むき出しの女のケツを足の親指で突くと、意外な弾力で押し返される。
それで急に現実感と同時に尿意を覚えてベッドから抜け出す。フローリングの床に敷かれた黒い毛足の長いラグが、絶望的にピンクのシーツと合ってない。
おおかた、男と同棲でもしていて、男の趣味で買ったものをそのまま使っているのだろう。
やけに綺麗に掃除されたトイレに忌々しさを感じて、飛沫が飛ぶのも構わず盛大に放尿して戻ると、女がベッドに正座して、コンタクトをつけようと、虚空を変な顔で睨んでいた。
「座ってやってくれた?」
寝起きから馴れなれしい口調の女に、とぼけて聞き返す。
「そういう体位が好きなんだっけ?」
「最低」
呟く女に、お互い様だろと思いつつ、ベッドの下に落ちていたシャツを回収する。
名前くらい聞いとこうかと思ったが、しつこくまだ何か言っている女に萎えて、やめた。
昨日の夜、病院からの帰りに憂さを晴らすつもりで新宿で飲んでいて、3件目あたりから記憶がない。
「おい、ここどこだよ」
「わたしんちだよ!」
怒ったように言う女に、地名だと聞き直すのも面倒で、代わりに用件だけ簡潔に告げる。
「金」
何か言い返す女に、さらに言う。
「タクシー代くらい出せよ。どうせお前が引っ張りこんだんだろ」
女は座ったままブラをつけながら罵声を浴びせてくる。後ろに回された腕で胸が突き出されている。
その姿にとりあえず、もう一度押し倒そうかと思い、そうすれば黙るだろうし、一石二鳥にも思えたが、その思いつき以上に面倒くささが先に立ち、結局金は受け取らず、部屋を出る。
携帯には、女からのラインが爆撃のようにきている。
東京の郊外は意外と坂が多い。池袋から西へ伸びる私鉄は、丘陵を割ったような、両側を壁と、その上に雑木林が続く暗い風景が、ダウンヒルのジャンプ台だったかのように、一気に風景が開けた。
高台から飛び出した電車の窓からは、おもちゃのような住宅街のカラフルな屋根が眼下に広がる。
朝日に輝いて、空気全体が淡い黄色に光っている。
扉の脇の手すりを掴みながら、アカネはコートの袖から指先だけ出して、片手でラインに返信する。
昨夜男がさんざん舐めたせいか、赤のネイルが剥げかけていて、また店に行かなくてはと思う。
我慢できないのか、一度脱がしたらもう自分のものだとでも勘違いしているのか、ラインの向こうで、さっき別れた男は、しつこく飲みに誘ってくる。その文面を見ながら、なんて断ってやろうかと想像して、思わず笑みが漏れる。
ブッ!!
耳元で断線するような嫌な音が響いて、聴いていた音楽が止まり、代わりに電車の走行音が飛び込んでくる。それでイヤホンが引き抜かれたのだと気づく。垂れ下がったコードを辿って、背後の座席へ視線を飛ばす。
朝帰りの時は、窓外の景色を楽しみたいのでアカネは座らないが、シートは空いている。そのシートの一番端、扉の脇に立つアカネのちょうど背後のような位置に黒い光沢のあるジャンパーを着た短髪の男が座席の端の仕切りに上半身を預けて座っていた。
振り返ったアカネと、見上げた男と目が合う。男は寝起きなのか、気だるそうに目を細めて、上目遣いだ。右目のまぶたに、切り傷の痕が走っていて、一重なのに、二重に見える。
「うるせぇよ、安眠妨害だ」
言い捨てて、男はうなだれるように目を閉じる。音漏れを責めたその言葉より、むしろ態度にむっときて、とっさに言い返す。
「あんた、いつもそんな喧嘩腰で生きてるわけ? いつか刺されるよ」
男は聞こえないふりをしているのか反応がない。
なんだ、ただのチキンか。どうせ若い女が一人で立っているから、物珍しさにちょっとちょっかいを出しただけだろう。それが証拠に、少し言い返されたら、このざまだ。だったら最初からもう少し低姿勢で来ればいいものを。
アカネは男の四方に跳ねた髪を見下ろす。だとしても、相手にしてやる気もないが。
男から奪い返したイヤホンを耳にはめようとして、甘やかな香りに気づく。女ものの香水だ。
自分のではない。アカネはもう一度男を振り返る。
平日の早朝の下り列車に女の匂いを纏わせて眠そうに座る男……そうか、こいつも同類か。
アカネが振り返ることを待っていたかのように男が顔を上げる。
「ブスに生き方諭されるたぁ、良い朝だぜ。お前の方こそ口の利き方に気をつけろ」
にやけている男に、アカネはイヤホンを突きつける。
「あんたの女のくっさい匂いがわたしの大事なイヤホンに付いたんだけど?弁償してくれる?」
「はっ!しょんべんなら掛けてやるよ。洗い流せて願ったりだろ」
アカネは男を睨みつける。男は切れ長な目で見返してくる。睨んでいるわけではないが、静かな光だ。虹彩の奥の白い光に首筋がゾクッとくる。男は興味を失ったように、大きく欠伸をすると、アカネから視線を外した。
音楽に夢中で、背後の男に気がつかなかった。仕事帰りはどうしても音が大きめになる。
きっと、仕事中のくだらない男達との会話を頭から消し去りたくてだろう。
背後で腕が下半身に移った。それにしても、駅のホームでしてくるとは、大胆な奴だ。
腰に触れそうで、ぎりぎり触れない。いつその手を掴んでやろうかと、神経を背後に集中させる。
触りたいんでしょ。早く触ればいい。そしたらご褒美に、あんたの人生、めちゃめちゃにしてあげるから。男の羞恥と怒りと絶望がないまぜになった顔を想像すると正直、興奮する。
男は、バカばかりだ。
ふっと、下半身から男の手の気配が消える。チキンめ。気が抜けた次の瞬間、耳元に男の顔があった。ひげが、頬に触れそうな距離。
なんだ、こいつ・・・。流石に身体が固まる。
「うるせぇと、忠告したはずだぜ。学習しない女だ」
低く、ドスが利いているのに、少し湿ったぬくもりのある声。どこかで、聴いた。どこだ?
すぐに思い出せない。仕事か。いや・・・違う。
振り返って、男の顔を見て思い出す。この前より髪は伸びているが、安っぽい光沢のジャンパーと、バカみたいに前をあけたファッションに見覚えがある。それと、まぶたに傷が入った目。
アカネはイヤホンを外すと、男に向き直る。
「あんた、ストーカー?わたしのこと、つけてるわけ?」
男は一歩さがると、細いジーンズのポケットに手を突っ込んだ。ヒールを履いているアカネとそんなに背が変らない。
「うぬぼれんな。お前の方こそ、目障りだ」
近くで並んでいた人達が何事かとそ知らぬ振りをしつつこちらに注意を払っていることに気づく。
「そ。じゃ、話しかけてこないで」
アカネはそれだけ言うと、イヤホンをはめ、再び前を向いた。興味があるなら、そう言えばいいのに、こういう格好つけた男が一番始末に困る。
「お前、ちょっと付き合えよ」
男はそう言ってアカネの手を掴んで、電車を待つ列から引っ張り出そうとした。
「やめてよ!」
鋭い声が出た。さすがに周囲の人間がこちらを見る。こういう時、女は圧倒的に有利だ。
そのことを、アカネは知っている。
しかし男は手を離さない。逆に身体を寄せて、落ち着いた声でアカネの耳元で言う。
「人を呼べば、お互い面倒だぜ」
もう一度叫ぼうとしたアカネの口にそっと指をあてる。長くて、細い。何も塗られていない爪がホームの蛍光灯を跳ね返して健康的に薄ピンクに光っている。
「ここは一つ、痴話喧嘩、ってことにしとこうや」
男は自分の人差し指についた、アカネのグロスを舐めた。
「変態」
アカネは吐き捨てて、男を睨む。
「よく言われる。じゃあ行こうか、奢るぜ」
「当然でしょ。それと、痛いから離してよ」
仕方なく、アカネは体の力を抜いた。
「悪かったな」
振り返って言ったその表情が思いのほか穏やかで、返事に戸惑う。
ヒカルの脈拍のリズムを、覚えてしまった。そう言ったら、本人はやめてよって嫌そうに顔を顰めるだろう、明るいところで近づいて、キスをしようとした時みたく、少し照れて俯いて。それさえ、想像できる。
モニターに映し出される波。それだけが生きている証なんて受け入れ難い、初めはそう思ったけれど、今はそれで充分と思える。感情もなく、意識もなく、波形はただの生理現象の現われだと分かっているけれど、人の心とは強くて、寂しい。
コウジはいつしか、ヒカルが生み出すその心の波形と話せるようになった。
「先週は来れんくてごめんな」
ベッド脇の小さな丸椅子に座って、祈るように両手を握って頭を垂れる。こんな綺麗な顔で眠っているみたいなのに、意識もなく、声も聞こえてないんだぜ。嘘みたいだろ。ヒカルに掛けていた言葉はいつしか、自分へと向けられていて、答えようがない。規則正しい電子音は、渦巻いて、結局発したコウジ自身へと舞い戻ってきてしまう、この病室に浮いたいくつもの言葉を整理し、時に残酷に分断するリズムだ。でもそのリズムに、音に、救われている。
(わたしじゃない、女の子の話でもしてよ。いいんだよ)。
まだ、しゃべれる時に、そうして笑っていた。思えば、失われていく、かけがえない時間、ヒカルの声、話せた時間、それを何故、そんなことに使ってしまったのか、きっともっと話すべき事はあった。何度もそう思って、でも、何度も幾度も、どんな話でさえ、し尽して、その末の言葉だったようにも思う。
病室の窓の外は木枯らしで、千切れて穴だらけの葉が横っ飛びに舞っていた。
嘘でもヒカルを笑わせられるような話が、出来ればいいのに。
「俺は、お前にばかり、構ってられねーんだ」
わざとそう口に出して言って、立ち上がる。
受け取ったら、ザラリとして思わず指先を確かめたけれど、埃じゃない。古い紙が擦り切れてざらついているだけのようだ。ハードカバーの硬い表紙はパラフィンで守られている。
タイトルを飾る、花鳥と唐草のデザイン。古めかしいのに、可愛らしい。
「部屋にある鏡花の全集で初校の箱付きはこれだけ」
マモルの背後には、スライド式の本棚が天井近くまで聳えている。
「あの隅の、あれは?」
アカネの指の先を追って、マモルが眼鏡を押し上げる。
「春と修羅。宮沢賢治にはまっていた時期があってさ、随分集めたんだ。だいぶ売ってしまったけど」
「そうなんだ。背表紙の猫がかわいいよね」
「そう、あれは版画でさ、原本が賢治の美術館に残ってる」
「ふーん、器用だったんだね」
「アカネさん?」
「何?」
背後からマモルが腕を回してくる。笑い声が漏れそうになって、口を抑える。少し待ったけど、そのままマモルはじっとしている。
「良い匂い」
「ただのシャンプーだよ」
そこまで言って、アカネはとうとう笑ってしまう。
「笑わないでよ」
腕を回して、サラサラのマモルの髪をなでる。染めている自分の髪より綺麗で憎らしい。
このまま、マモルはどうするつもりなのか。立ったままする勇気なんてないくせに。
仕方ないから自分から座ってやろうかと思ったら、強引に唇を奪われた。
何度やっても、乱暴だなぁ。そう思って、でもそのこらえ性のないところが、可愛い。
唇を離して、マモルを正面から見る。
「優しくしてよ。本扱うときみたくさ」
「してるよ」
マモルの声が掠れて、体重をかけられる。あっと思ったら尻餅をつくように床に押し倒されていた。
何か、本が下敷きになっていて背中が痛い。
「待って、待ってよ」
言って、背中に腕を回すと、そのまま掴まれてしまう。天井の明かりがまぶしい。上からのしかかるマモルから視線を外して、光を溜め込むように、蛍光灯を見つめる。目の奥が、白で満ちて、ジンと痛む。
「分かったから、明かりくらい消してよ」
アカネは笑って、見上げる。何故かマモルは泣きそうな顔をしている。
サックスの生演奏が終わって、奏者の黒人が、舞台近くの席で飲んでいた顔見知りらしき客と何か話している。アカネはその様子をカウンターから眺めていた。その視界を隣りに座ったコウジの腕が遮る。
「もう一杯付き合えよ」
「無理。電車なくなるし、帰る」
コートを掴んだアカネを、コウジは細長いビールのグラスを持ったまま眺めている。
「今日はご馳走様。でも、もうあんなことしないで。次は、本当に人呼ぶから」
「今日だって呼んでよかったんだぜ」
「そうね、命拾いしたわね」
アカネは笑って手を振ると、コウジに背を向けた。
誘いに乗ってやったのに、手も出してこないし、変に余裕かまして、嫌な奴。
連絡先くらい、聞けっての。礼儀だろ、ばーか。
中庭に植わったコスモスの柔らかなピンクの塊が、3Fの病室の窓からも見える。
ヒカルはベッドの上で、上半身を起こしている。ここまで回復したのは、お兄さんがお見舞いに来て声をかけ続けたせいですよと言われるが、そんなことはないだろう。
「声、聞こえてたよ」
「嘘をつくなよ」
「ねぇ」
隣りの患者は検査でいないが、ヒカルは声をひそめて、ベッド脇に座ったコウジに顔を寄せる。
「わたしが意識ないからって、変なこと、しなかった?」
「バカ」
「しても良かったんだよ」
コウジは鼻で笑って、癖でポケットに手を伸ばしかけて、病室だったことに気づく。
煙草は外まで出なくては吸えない。
「そんなことより、そんなしゃべって大丈夫なのか」
「全然。なんかさ、わたし、ずっと船に乗った夢見てて。たくさん人がいるんだけど、みんな黒い顔で、黙って運ばれていくの。そこにずーっといて、だからね、今、いっぱい話したいんだ」
何か思い出すように、組んだ指を見つめている。
「無理すんなよ」
「声が聞こえていたのは、本当だよ」
はっきりとした二重の大きな目が、帰ろうかと腰を浮かしかけたコウジをすがるように見上げる。
「てめぇの愚痴しか言ってねぇ。それが本当だとしたら、悪かったな」
「ねぇ、もう帰るの」
「養生しろ。元気になったら散歩にでも連れてってやるよ」
そっと頭を撫でてやる。その手をヒカルが掴む。しばらく、そのままコウジは立っていた。
「好きな人、出来た?」
突然、ヒカルが呟く。立ったままのコウジの目に、汗で濡れたヒカルの髪がうなじに張り付いているのが見えた。その儚さと美しさに、一瞬、息を止める。
「病人は、余計なこと考えるな」
言って、少し強く手を引いた。
また来るから、そう言って歩き出した背中に
「お願い、好きな人が出来たらもう来ないで」
と、声が聞こえた。
「他に好きな人が出来たの?」
マモルの言葉に、アカネはふふっと笑う。
「そんなんじゃないよ」
じゃあ何故と重ねて聞くマモルの言葉を遮る。
「もうしなくていいの?最後なんだよ。何してもいいのに」
そう言って、笑ってやる。マモルが身を起こしたら、安いラブホのベッドが軋んだ。
のしかかられて、濡れている、マモルの瞳と目が合う。
アカネは下から腕をマモルの首へ絡める。
「なんべんさびしくないと言ったところでまたさびしくなる。でもここはこれでいいのだ」
マモルの囁くような声が耳元で聞こえる。
「中也なんていらないよ。早く」
抱きしめられて、大きくベッドの上を反転した。
冷たい指が、セーターの中に入ってくる。
樫の分厚いカウンターにさっきまで置いていたグラスの痕がついている。
「ねぇ、その目の傷、どうしたの?」
「よくここが分かったな」
アカネは長い横文字のカクテルのグラスの縁に付けられた飾りみたいなレモンを取ってナプキンへ載せる。
「この店に連れ込むのがいつもの手口なんでしょ」
「わざわざ嫌味を言いに来るとは暇だな」
コウジはロックの日本酒を猫みたく舐めていたが思い出したように言った。
「昔、ボクシングをしていたんだ」
まぶたの傷跡を差す。
「へぇ、痴話喧嘩じゃないんだ、意外」
「女に殴られるようなヘマはしないさ。どうせなら、殴る方だな」
「最低」
「だったらもう構うなよ」
コウジはマスターに声を掛けて、立ち上がる。
「何それ。最初の時はあんな強引だったくせに」
「今日は、予定があるんだよ」
「かっこつけて。どうせ別の女でしょ」
その声に軽く手を振って、店を出る。
その途端、いつも後悔する。もっと早く行こうと思えば行けたのに、たいがいこうしてぐずぐずしてしまう。そうして、面会時間ぎりぎりになって駆け込むのが常なのだ。
ヒカルの嬉しそうな顔が見たくなくて時間を遅らせるのに、待たせた分、ヒカルはいっとう、嬉しそうな顔で、でもそれを堪えるように、控えめに手を振ったりするから、愛しくて、それがゆえに、行きたくない。
病室の前で息を整えて、軽い声が出るようにイメージトレーニングをする。
「よぉ、じゃないよ、バカ。嫌い」
イメージトレーニングは上手くいって、軽く手をあげたコウジをヒカルは睨む。
「今日は良い知らせがあるのに」
「知ってるさ。さっき医者から聞いたよ」
ヒカルがコウジを見つめる。スタンドライトの小さな灯りに、右頬だけ照らされていて、陰になった左目が、薄暗がりの中で光っている。その目を見つめ返す。
「よかったな」
明るく言ってやるつもりだったのに、口から出た言葉はしっとりと、湿り気を帯びていた。
返事はなくて、やがて、小さな嗚咽が聞こえてきた。(終)
special thanks
「orion」(米津玄師)
「擬態」(Mr.Children)




