お茶会
チェシャ猫に言われ、アリスと一緒に帽子屋のいる森の泉の畔まで来た俺を出迎えたのは、俺と同じ歳頃の男の子だった。
「ようこそ、アリスにシロウサギさん。待ってたよ」
男の子は俺達が来るのをまるで知っていたかの様にそう言った。
いや、それも気になるが、今はもっと気になる事が…。案内をされている間、俺は我慢出来ずに、自分の心の引っ掛かりを口にした。「君……それ、着てるのって…」
「あ、これですか?お茶会の時には僕達三人共、これを着てますよ」
エへ、と男の子は首を傾いではにかんだ。いや、似合ってるけど、そうじゃなくて。
だってそれ、着物でしょう?
男の子が着用していたのは、見事な日本の伝統的な民族衣装だった。それは見事な着こなしで、一日本人としては恥ずかしくなってくる。
ん?待てよ。着物でお茶会っていう事は……。
俺達が着物の男の子について畔の方に歩いていくと、夜の歌舞伎町で聞く様な、野太さの中に微かな色気が混じる声と遭遇した。
「ちょっと、ネムイズミ!!早くこっち来て新しいお茶たてなさい!!」
「あ、はい!」
声に呼ばれて男の子――おそらくネムイズミ君は声のした方に駆けていった。俺達も、そこを通る。森の緑の中に唯一赤の空間がそこにはあった。そう。野点。
赤い敷き物の上で爪の手入れをするお姉さんと、その向かいに座るいかにもガラの悪いお兄さん。お兄さんの方には、ちょっとだけアリスを彷彿とさせるものがある。
お姉さんが爪の手入れをする手を休める事なく、ネムイズミ君に言った。口を開くと、信じられない事に、さっき聞いた歌舞伎町にいそうな声が。
「で、アンタ、誰連れてきた訳?」
よく見ると体格も女にしては逞しい。俺は男として、酷くがっかりする。
「あ、はい。こちらはアリスとシロウサギさんです」
ネムイズミ君がお姉さん改めお兄さんに紹介した。俺も自分から進んで自己紹介をしようとして、口を開くが、
「誰がいつそんな当たり前な事訊いたのよ!私が言ってるのは、何でアリスがここにいるかっていう事!!」
「あ、あの…今回は、俺が帽子屋さんに会いにですね……」
このお兄さんを落ち着かせようと言って、自分でも改めて思った。帽子屋さんはどこだろう。帽子屋というからには、帽子を被っていたり、売っていたりするのだろうしかしながら、ここにいるのは人の良さそうな男の子と、おネェ口調のお兄さんと、着物を格好良く着崩して腰帯からいくつも時計をぶら下げているアンちゃんだけだった。
俺がキョロキョロしていると、俺の後ろであぐらをかいて座っていたアリスが、いきなり自身の膝を叩いて一同の視線を引いた。ゆっくりと顔を上げたアリスの口から出てきた言葉は。
「よう、言ってくれるな。帽子屋」
えーーーーー!?
このおネェさんが、帽子屋!?だって帽子屋っていうからには、帽子被ったりしてるんじゃないの!?
アリスの言葉に、帽子屋が反撃した。静かな言葉にトゲを交えて。
「他にどう言えばいいのかしら、可愛い可愛いアリスちゃん?」
俺は帽子屋の手元に今気付いた。ただ爪の手入れしてるんじゃなくて、マニキュアを塗っている。しかも、あの細かな絵柄は、
「ネイルアート?…帽子屋が?」
俺が思わず口に出して訊くと、帽子屋は思いきり膨れ面をした。気持悪…じゃない、気味が悪い。……どっちも同じ意味か。
「何よ、帽子屋が帽子を売るって何百年前の話?帽子なんてダッサイ物、いつまでもちまちま売ってられないわよ。それより、時代はネイルアート。アタシはこれで生計を立てるの」後半の言葉をうっとりと言って、帽子屋は完成した芸術作品を周りの木々に映えさせる様にして鑑賞した。アリスがボソリと呟く。
「いきなり帽子売りをやめて先代を引退に追いやったの、テメェじゃねぇか」
しかし帽子屋はしれっと反論した。
「アタシのせいじゃないわ。アノ人は長年の心労で倒れたの。人聞きの悪い事言わないでくれない?」
「その心労の原因は誰だよ…」
ケッと唾を吐きながらアリスが言った一言は、今度は帽子屋には聞こえなかった様だった。その前に、ガラの悪いアンちゃんの方が、完全にキレちゃってる喋り方で俺に話しかけたのだ。
「で?え?エ?お前ってばシロウサギ?なぁなぁ、一緒に呑もうや。俺ってば、三月ウサギだからさぁ」
これでこのお兄さんが腰帯に無数の時計を付けている理由が分かった。
時計を身に付けているのは、確かウサギさんだったよな。
「あ…そ、そうなんだ。よろしく…」
圧倒されつつ挨拶すると、三月ウサギは舌を出して「ヒャハハハ!」と笑った。怖い!怖いよ、お兄さん!
俺がヒいたのを感じたのか、帽子屋はまだ爪を鑑賞しながら三月ウサギに言った。
「ちょっと、ウサギぃ。あんまりシロちゃん怖がらせるんじゃないわよぉ。アンタの笑顔は無駄に怖いんだからぁ」
そのシロちゃんってのは、もしや俺の事?
三月ウサギはまた舌を出して笑った。「え~ん?マジでぇ?俺ってば泣いちゃう~」
と言いつつもその、顔には悲しみなぞ一切感じられない。初めて見た時から、そういえばこの男の顔には野生的な笑い顔しか張り付いてない気がする。
「で?アンタ達、わざわざ何しに来たのよ?」
「え?」
帽子屋に訊かれて、俺とアリスは顔を見合わせた。そういえば、チェシャ猫のお使いの内容を聞いていない。というより、言われなかったと言った方が正しいだろう。俺達がお使いの内容を訊こうとすると、チェシャ猫は、「行けば分かるよ~」と言って、俺達を自分の縄張りから追い出したのだった。
というか、ネムイズミ君のおもてなしからして、俺達が来た理由などとっくに知れていると思ってた。ネムイズミ君は、俺達が来る事を知っていた様な口ぶりだったのに…変なの。
俺とアリスが戸惑っていると、帽子屋は不満げに口を尖らせた。
「なぁにぃ?用向きは無い訳?冗談じゃないわよ、こっちは暇じゃないんだからねぇ」
いやいや。おもいきり野点してるし。アンタにいたっては自分の爪のネイルアートって…よっぽど暇じゃないとできないと思うんだけど。
「用が無いなら帰ってくれなぁい?いつまでもそこにいられると、爪が割れちゃうわぁ」
意味が分からないし、そんな事100%有り得ないし。
アリスの方を見る。もう怒り浸透、という顔をしていた。背中のバズーカ砲を外して空中でくるりと延髄を描くと、砲口を帽子屋に向けたのだ。
「ふっざけんな!!こちとらテメェのトコなんざ来たくなかったのに来させられて、もうムカムカしてんだよ!!チェシャ猫の言う事に素直に従うアタシが馬鹿だった!!もうテメェをぶっ殺して帰る!!」
アリスさーーーん!!!??
これは大変だ!何がそんなに気に入らないのか知らないが、アリスをここに長居させておく訳にはいかない。俺はアリスの構える砲身に飛びかかって全体重をかけて下に向けさせる。双子殺しは知らないが、帽子屋殺しは罪になるだろう。そんな事をさせる訳にはいかなかった。ていうか、アナタが帽子屋を殺したい理由は多分、ムカムカしてるからだけじゃないでしょう!!突然の事件発生に俺は混乱しながらも、先方になんとか用件を伝えようと頑張った。
「すいません!!俺達チェシャ猫に言われてここに来たんですけど、チェシャ猫の奴なんにも言わないから訳分かんなくて!とりあえず来てみたんですけど何かアリスが大変なんで、もう帰ります!!」
駄目じゃん、俺!!
「畜生、ウサギ!放しやがれ!!殺すぞ!!」
現代日本で聞いたら、小学生の精一杯の脅し文句なのだが。
アリスは俺を振りほどこうともがいたが、俺はてこでも放れる気は無い。すいません、殺される訳にも、殺すのを黙認する訳にもいかないんです。
三月ウサギが「ヒャハハ、お前ら面白ぇー!!」とまた舌を出して笑った。笑ってんじゃねぇ、こちとら必死だ。
俺が悪戦苦闘していると、不意にアリスの額に手が延びた。俺を振りほどこうとしていたアリスの動きが止まる。
「チェシャ猫、と言いましたね。シロウサギさん」
アリスの額に手を置いて言ったのはネムイズミ君だった。
ネムイズミ君の腕は、特別力を入れている様には見えなかった。なのに、あのアリスが、まるで石になった様に動かない。ネムイズミ君、何者だ。
「畜生…!ネズミが…」
アリスが冷や汗をかいて悪態をついた。ネムイズミ君はちょっと腕にバネの力を加えて、アリスを吹っ飛ばした。アリスが1m先の木にぶつかる。えぇ!!?本当に何者だよ、ネムイズミ君!
アリスを吹っ飛ばすと、ネムイズミ君は俺を向いた。しかし、何だか眠そうに、目がトロンとしている。
「チェシャ猫に言われて来たんですか?」
俺はアリスを心配するやら、ネムイズミ君の意外な強さに度肝を抜かれるやらで、震えながら数度首を縦に降った。ネムイズミ君が、眠そうな顔を満足げにほころばせる。
ネムイズミ君は顔を帽子屋に向けて言った。
「だ、そうですよ。チェシャ猫さんから預かっていた品の件じゃないでしょうかね?」
帽子屋は「そうならそうと、早くいいなさいよ。んも~」とか言いながら着物の懐に逞しい腕を入れる。
腕が出てきた時、その手に握られていたのは鍵だった。帽子屋はその鍵をちらつかせながら、俺に言う。
「これの事?」