帽子屋
木の上から登場した変な奴は、俺を向いて仰々しく礼をした。左腕を背中に回して右足を軽く曲げ、左足に重心を置いて右腕は大きく輪を描きながら頭と一緒に地面へ向かう。下げた頭と手の甲は、ほとんど地面についていた。恐ろしく体が柔らかい奴だ。俺はこいつが名乗った名前をたどたどしく口にした。
「チェ……チェシャ、猫?」
体の線はとても細いが、そいつはどうも猫というより普通の男性に見えた。というか、おもいっきり人間の男だ。
しかも美男子だ、美青年だ!!長生きだとアリスから聞いていた俺は、思いきり面食らった。
男は頭を垂れた体制から素早く顔だけを上げると、調子の良い声で答えた。
「ハイ、その通り!世に聞くチェシャ猫とは、俺の事だよ!」
自己紹介をされては、こちらもそれに答えないと俺のスポーツマンシップが廃る。俺が自己紹介をしようとすると、ゆっくりと上体を起こしながらチェシャ猫が言った。
「あぁ、君の事は知ってるから大丈夫。君が俺に訊きたい事も。ね、シロウサギ君?」
もうここまで来て、シロウサギと呼ばれる事に大した抵抗は無くなってきた。慣れというよりは、諦めだ。
ちゃんと立ったチェシャ猫は、身長が俺の二倍近くあった。彼の腰は、俺の胸――丁度金時計がぶら下がってる辺りにある。恐ろしく脚も長い。それで全体的に細いのだから、脚なんて一発蹴ればポキンと折れそうだと思った。
「さて、君は元の世界に戻りたい、と。この世界に来て早々、代替わりをしたいという事だね?」
チェシャ猫が俺に訊くと、今はチェシャ猫の影に隠れて見えないアリスの茶化す様な声が、向こう側から聞こえてきた。
「さっすがチェシャ猫様。もはや全てお見通しという訳だ」
チェシャ猫はアリスを肩で振り向くと、彼女に肩をすくめて見せた。
「何を言うんだい、アリス。俺にだって分からない事はあるさ。例えば、女王様の考えている事とかね」
向こう側で「さぁ、どうだか」とアリスが呟いたのが聞こえた。何となく仲の悪そうな二人だ。ちょっと気まずくなりながらも、何とか現状から脱出したい俺は、意気込んで訊いた。
「教えてくれ、チェシャ猫。どうやったら、シロウサギを辞められる!?」
チェシャ猫は右手で左腕の肘を支えて、頬杖をついて「う~ん」と唸った。かといって困った風でもなく、むしろ面白がっている感じだ。やがて何かを思い付いたのか、猫は人指し指を立てて提案をした。「君達、ちょっと俺の代わりに帽子屋の所へ行ってくれないかな?」
提案の意味が分からない俺をさし置いて、「ハァ!?」と声を荒げたのはアリスだった。
「ざっけんなよ!!それとこれと、何の関係があるってんだ!!」
「無条件という訳じゃない。もし君達が俺の代わりに帽子屋の所へ行ってお使いをしてきてくれたら、シロウサギ君が引退する方法を教えようじゃないか」
チェシャ猫は立てたままの人指し指を唇に軽く当ててアリスに言うと、今度は俺を向いて、最初と同じ形のお辞儀で俺の顔を覗き込んだ。
「どうだい?シロウサギ君」
まあ、人にモノを教えてもらうんだから、もちろんタダという訳にはいくまい。世の中ギブ&テイクだ。それはこの世界でも同じだと思う。
「分かった」
俺がチェシャ猫の条件を飲み込んでコックリと頷くと、アリスは突然俺とチェシャ猫の間に割って入った。
「おい、ウサギ!!そう、物事を後先考えずに進めるのは良くない!!止めろ、止めた方が良い!!絶対止めるべきだ!!」
「何だい、アリス。俺はシロウサギ君に言ってるんだよ」
「黙れ!アタシはあの帽子屋は大っ嫌いだ!!」
「落ち着けよ、アリス。俺が帽子屋の所に行くんだ。別にお前が行く訳じゃないんだから、いいだろ」俺が口を挟むと、アリスは「よくない!」と半場取り乱して言った。チェシャ猫が、冷静に説明してくれる。
「アリスはシロウサギを見付けたら、行き先が何処だろうと、後を追うかついていかなきゃいけない。まぁこれは、この世界の掟みたいな物なんだよ」
「へぇ」
俺は妙に関心した。アリスがシロウサギを追いかけるなんて、妙にアリスっぽい所もあるじゃないか。
チェシャ猫は両手を頭の後ろで組んで、アリスを面白そうに見ながら言った。
「まぁ、今回帽子屋に行くのはあくまでシロウサギ君だから。シロウサギ君は他の誰でもない自分の為に行くんだから、君に反論の余地は無いよ。ねぇ?アリス」
アリスは反論する言葉が見付からず、ただチェシャ猫を睨んでいた。