9.桐生先生
見覚えのある扉の前。
ここに来るまでに考えて、悩んで、決めた。
これは仕事だ。編集長の言う通り、他の編集員は手一杯で、代わってもらえる人はいない。
……いや、皆事情を知ってるのだろう。ぬるい同情の視線がちらちら流れてきていたから。
あたしは編集で、この部屋にいるのは作家先生。
目を閉じて深呼吸をすると、呼び鈴を押した。
反応はない。
もしかしたらまだ寝てるんだろうか。
編集長からは午後一時のアポと聞いた。
まさか出かけているわけではないだろう。
もう一度手を伸ばしかけたときに間の抜けた『はい』が聞こえた。
ぎゅっと心臓をわしづかみされたように息が止まる。
「桐生先生、おはようございます、編集の緑川です」
震えそうになる声を必死で押し殺して答える。
向こう側の息遣いが聞こえる。
「後藤の後任としてご挨拶に参りました」
応答のない間を埋めるように言葉を絞り出すと、がちゃりと通話が切られた音がした。
扉が開けば、五か月ぶりの再会になる。
あたしは取り乱さずにいられるだろうか。
何かをけ飛ばす音に続いて扉にどしんと内側からぶつかるような音がして、一歩後ずさる。
鍵を開ける音がして、思わずぎゅっと目を閉じた。
詰られるかもしれない。殴られるかもしれない。――それだけのことをしたんだと今ではもうわかってる。だから、何をされても我慢しよう。覚悟はできている。
それに……久しぶりに会う彼の顔を見るのには少しだけ心の準備が要った。
だから目を閉じて、まずは頭を下げよう。
そう思っていたのに。
扉が開いた気配に頭を下げようとした途端、抱きつかれた。
「ふぇっ」
「美紀!」
ぎゅうぎゅうに締め付けられる。
それと同時に匂ってくるこれは……アルコールのにおいと、強烈なたばこのにおい。
昼間っから酒飲む人じゃなかった。
それに……たばこなんて吸ってなかったのに。
「ようやく来てくれた……美紀、みきっ」
アキラはあたしあより頭一つ分背が高い。胸に顔を押し付けられる形になって、声を出そうとしても口をふさがれて声にならない。
何とかうめき声をあげて自由になる両手で背中をばんばんとたたくものの、動かない。
そのうち小さく震えはじめ、密接した体から響いてくる嗚咽に、あたしは叩くのをやめた。両手を背中に回す。
なんでこんなに簡単に許すのよ。
あたしは、こんなになるまであんたを傷つけ、追い込んだ張本人なんだよ?
メールも着信もメッセージも全部無視して。
あたしの知らない誰かと結婚話が進んでると思い込んで、アキラを解放してあげるんだとか言い訳しながらその実、嫉妬して自分勝手に当たり散らしていただけだったと知らされた時には、もう遅かった。
最後にくれたチャンスもふいにして。
呆れられたに違いない。
間に合わなかったんだもの。
愛想つかされたって思ってた。
だから、忘れようとしたのに。
「あの店でずっと待ってた。なんで来てくれなかった?」
あの店?
店なんて知らない。
「挙句の果てに携帯の番号もメールも変わって連絡取れなくなるし……家に押しかけようと思っても、合鍵返しちまったし、部屋の前で待ってたら管理人に追い返されるし」
ええっ? そんなことしたの?
管理人って一階の大家さんよね。なにも聞かされてないんですけど?
ああ、そういえばストーカーがどうのって雑談したような気はする。あれってアキラのことだったの?
「美紀の家の近くのファミレスで美紀が帰ってくるの待ったこともある。一度も遭遇できなかったけど」
なんでそんなに機動力高いの。
あれからずっと忙しくて終電逃すことも多かったんだよね。おかげで不健康に痩せたよ。
「仕方がないから毎日のように編集部に顔出してたら出口さんから出禁にされるし」
ちょっとまって、そんな話、編集長一言も……。
そういえば、来客と会議が増えたなとは思ってたけど、アキラだったの?
あたし全然知らなかったよ?
「あの原稿も取り下げるって言ったのに許可してくれなかったし」
編集長、いったいなに無茶やらかしてるんですか。アキラが取り下げるって言ったんなら掲載できないでしょう? 出版契約書を盾にしたの?
「あきらめようと思った」
胸に痛みが走る。
「一度さ、出口さんがこっそり見せてくれたんだ。美紀の仕事してる姿。もちろん、家でやってるの見てて知ってるし、わかってる。ただ――あれからまるで人が違ったみたいに溌剌と仕事してる美紀を見せられて、俺、邪魔だったんだってようやく気がついて」
溌剌となんてしてない。人が減って、仕事が増えて、よそ見をしたりする余裕が全くなかっただけ。
それに……仕事に没頭してすべて忘れたかった。
ただそれだけなのに。
「出口さんには美紀が選ぶまで待てって言われた。ずっと我慢して、でもめちゃくちゃストレスMAXで眠れなくなって……飲むようになった。泥酔しないと寝られない。今だってすっげぇ眠い。眠いけど眠れなくて、もう限界だ。だから――美紀」
耳元で囁くように。
「結婚してくれ」
特大の爆弾を落とした。