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海辺の恋  作者: と〜や
8/12

8.引き継ぎ

「鳥居先生の校正チェック終わったか」


 奥の会議室から編集長の声が飛んできて、あたしは立ち上がると振り返った。


「まだです。電話します」

「おう。頼むわ」


 編集長はそのまま会議室に戻っていく。

 スマートフォンで連絡先を確認する。新しい機種は使い勝手も違っていまいち慣れない。

 お目当ての電話番号を見つけると、デスクの受話器を取り上げた。

 電話を掛けながら、窓の外をちらりと見る。まだ十八時になってないのにすっかり真っ暗だ。そのうえ白いものまで降ってきた。

 今週末まで冷え込むと朝の番組で天気予報官が言っていた。

 そろそろ冬用コートを出さなきゃ。

 呼び出し音を聞きながら、ひとつため息をついた。


 編集長が戻ってきたのは電話が終わってすぐだった。


「編集長、鳥居先生なんですけど、熱出して倒れてるそうです。ゲラは見たけどパソコンの前に座ってられないそうで」

「何甘いこと言ってんだっ。先生がパソコン触れないならお前行って聞いてこい。いや、パソコン持ってって向こうで仕上げてすぐ俺に送れ」

「わかりました」


 先生が倒れてるって聞いた時点でこうなるんじゃないかと思ってたから、ノートパソコンはすでにスリープ状態にしてある。バッグに詰め込むと在席表にホワイトボードマーカーで『鳥居先生宅』と書き込んだ。


「終わったら電話入れろよ」

「はい」

「あ、それと」


 扉のノブに手をかけたところで声をかけられた。


「今日はこっち戻ってこい。話がある」


 そう告げた編集長の顔は、印刷所への入稿ぎりぎりで焦ったり怒ったりしてるいつもの顔ではなかった。まっすぐ見つめてくる目に胸騒ぎを覚える。もちろん、悪い意味でだ。


「……わかりました」


 一礼すると、急ぎ足で部屋を出た。


 ◇◇◇◇


 編集長には訂正後のデータを送ってあるし、電話でも伝えた。

 鳥居先生はまだ三十八度の熱でうなされていたけれど、彼女が仕事上がりに来ると言っていたからお暇してきた。これが独り者の作家さんだったらしばらく面倒見ろって編集長から指示が飛んでくる。曰く「孤独死されるくらいなら編集者一人の日給ぐらい安いもんだ」とか。まあ、実際にそういう例があったらしいから分からなくもない。

 電車に揺られながら、手の中のスマートフォンを弄ぶ。

 前のスマートフォンは赤いボディで気に入っていたのだけれど、今のは白か黒か二者択一で、仕方なく白を選んだ。

 キャリアも変えた。番号も新しいものにした。

 前のスマートフォンに収まっていた電話番号は一切救い上げられなかったから、手元にあった名刺を見ながら、一から登録した。


 ――アキラの番号以外は。


 パソコンのメッセンジャーアプリはアンインストールした。

 プライベートのメールアドレスも変えようかと思ったけれど、プロバイダを変えなきゃならないとかで結局手続きはしていない。

 でも、プライベートでメールくれるような人はほとんどいない。親や友人には新しいスマートフォンの番号とメールアドレスを教えてるから、プロバイダメールに来るのはスパムだけだ。

 家のパソコンのメールソフトも立ち上げなくなった。仕事で使う場合は会社のノートパソコンを持ち帰るし、パソコンの電源を入れること自体、ない。

 引っ越そうかとも思った。

 でも、また一人編集の子が寿退社したおかげで編集部はてんてこ舞いでそれどころじゃなかった。

 あれから五か月。

 街にはクリスマスソングが流れている。電車の中もクリスマスバーゲンの広告だらけだ。

 次月号は年末進行でいつもより早い。たまりにたまってる有給でクリスマスあたりからぶらりと旅にでるのもいいな。

 実家に戻るのも、あの部屋で年越しを過ごすのも気が進まない。

 いっそのこと海外でもいいかもしれない、とブラウザを立ち上げた。海外は卒業旅行で一度行ったきりだ。パスポートはまだ有効だったろうか。一度確認しておこう。

 編集長のあの目を忘れるために、ツアー情報を漁った。


 ◇◇◇◇


「悪かったな、遅くまで」

「いえ、大丈夫です」


 編集部に戻ると、フロアの半分がすでに消灯されていた。

 外に出ていたおかげでできなかった仕事がまだ残っている。明日に回せるものは回して、今日中のものは片づけておかなければならない。


「鳥居先生、あのあと俺に電話かけてきたよ。熱はだいぶ下がってきたって」

「そうですか」

「お前にも申し訳ないと伝えておいてくれと」

「そうですか」


 申し訳ないのはむしろこちらだ。具合が悪いところに押しかけてゲラチェックさせたのだから。


「そういえば、手土産を持っていくのを忘れました。後日お詫びとお見舞いを兼ねて行ってきます」

「おう、そうしてくれ。……で、話があるんだが、いいか?」


 編集長はパソコンを開いて作業を始めたあたしの横に立っている。顔を上げると、出がけに見せたあの胸騒ぎを起こさせる目でこっちを見降ろしていた。


「作業しながらじゃいけませんか」

「仕事の打ち合わせだ。ながらでやろうとするな」

「……わかりました」


 溜息を一つつき立ち上がると、編集長はすでに奥の会議室に向かって歩き出していた。

 フロアにはまだ何人も残っている。彼らには聞かれたくない仕事の話、ということなのだろう。

 メモ帳とスマートフォンを取り上げると、編集長のあとを追った。


 会議室に入ると、珍しく編集長は一番奥、プロジェクター用スクリーンの前に座った。

 どこに座ろうか迷ってるとはす向かいの椅子を示される。

 それほど内密の話なのだろうか。あまりいい予感がしない。

 示された椅子に腰を下ろすと、編集長はおもむろに会議室内の冷蔵庫からドリンクを取り出して目の前に置いた。


「編集長、これビールですけど?」

「残業続きの時にたまにやるんだ。ポケットマネーで買って入れてんだ。告げ口するなよ」


 にやりと笑う編集長の表情からは、あの胸騒ぎのするような雰囲気は見られない。

 ほっとしてビールのプルタブを引き上げると、ぐいと一口飲んだ。


「よし、飲んだな?」

「え?」

「これでお前も共犯者だ」

「何なんですか、いったい」


 あのまま鳥居先生の家から直帰したほうが早いのに、わざわざ編集部まで戻らせたのはこっそりビールを飲む共犯者に仕立て上げるためですか? だとしたらずいぶん悪質だと思う。


「本当ならここで一杯飲みに連れてってやると言いたいところなんだけどな、その代わりだ」

「そうですか」

「この間後藤が辞めたろ?」

「はい」


 春先にやめた新人くんとは違い、後藤さんはご家族の介護のためだと聞いている。ベテラン編集者なだけにもったいない。確か、在宅でもできる編集作業をお願いすることになったと聞いた。


「でな。今お前にやってもらってる作業のうち、在宅可能な作業を後藤に回すことにした。お前、割り付けとかもやってたろ?」

「はい」


 ぐび、と一口飲み下す。編集長が言っているのは、デスクワークのほとんどを後藤さんに割り振って、足を使う作業がこっちに回ってくるということだ。

 原稿の依頼とか催促とか打ち合わせとか回収とか、デザイナーとの打ち合わせとか。

 原稿の回収は最近はメールで入れてくれる作家さんが多いから助かっているけど、依頼と打ち合わせはさすがにメールやチャットソフトでっていうわけにはいかない。


「わかりました。じゃあ、引き継げるように準備しておきます」

「悪いな」

「で、いつからですか?」

「後藤が次にここに来るのは来週月曜日だ。それまでに諸々、まとめといてくれ。で、後藤が受け持ってた作家については、明日から担当してくれ」

「明日からですか?」

「ああ。次号の特集はもう動いてるし、年末進行だから月曜日まで待ってられない。悪いけど頼むよ」


 お願い、と言わんばかりに両手を合わせて拝んでくる。

 編集長には入社以来公私の面でいろいろ助けられているし、借りはあるけど貸しはないんだよね。

 あの時だって、何とか自力で帰ったものの、四日も熱で寝込んだあたしの様子を見に来てもくれた。

 溜息をついて、うなずいた。


「わかりました。後藤さんの担当してた作家って誰と誰ですか?」

「井ノ口先生と……桐生先生だ」


 どくり、と心臓が跳ね上がった。


「……何のつもりですか」

「何のつもりもない。仕事だ」


 編集長の目は、あの目になっていた。冷静に心の底まで見透かしたような視線。

 こぶしを握って、思いっきり眉間にしわを寄せる。


「嫌です」

「仕事に嫌も何もあるか」

「パワハラですか」

「お前な……」

「とにかくお断りです。ほかの人に回してください」

「他の奴も手一杯だ。お前にしか頼めない」


 空になったビールの缶を置いて、席を立つ。


「お前、まだあいつの作品、読んでないのか?」

「……約束だったから読んでませんし、今後も読むつもりはありません」

「あのな」

「嫌です。失礼します」


 頭を下げるとくるりと回れ右をする。がたんと音がして、腕をつかまれた


「痛っ」

「……いいのか、本当に。このままじゃあいつ、ダメになるぞ」

「離してください」

「知ってるか。あいつ、あれから一本も書いてないんだ。後藤からも聞いた。書きたいのに書けないって泣いてたんだそうだ。……このままじゃ、作家生命も終わりだ」


 作家生命もって……どういうこと?

 思わず振り返ると、編集長はつらそうな表情であたしを見ていた。


「……どういうことですか」

「知りたきゃ行って見てこい。いや、お前は知る義務がある。……あいつがああなった原因はお前だろ」


 編集長の言葉に奥歯をかみしめる。


「お前だけが悪いとは言わん。だが、今のままだとどっちもダメになる。お前も、あいつもな。俺は優秀な編集者も将来有望な作家も失いたくはない」

「……失礼します」

「明日午後一時にアポ取ってある。絶対行けよ!」


 編集長の声を背中に聞きながら、あたしは会議室を出た。

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