5.すれ違い
「遅かったね」
「そう?」
玄関の鍵を閉めながら時計を確かめる。十九時の予定だったが二十時を回ってしまっていた。
アキラはやっぱり不満げに上がり框に立っている。
「斉藤さんのところに寄ったあと直帰だったんだけど、電車が止まっちゃって。仕方ないから振替輸送のバスで帰ってきたの。すっごい混んでて、乗るのに三十分待たされちゃって。あ、これお土産」
ケーキの箱を押し付ける。
バスを降りてすぐのところにあるケーキ屋さんがまだやってて助かった。
昨日は締め切り明けだったわけだし、本当ならゆっくりしたかったに違いないアキラへのご褒美。
「駅前のノルン?」
「そう。あそこのショートケーキとプリンアラモード。好きでしょ?」
「ありがと。でも、ごまかされないからね。連絡入れてって前も言ったよ?」
「ごめん、バッテリー切れしちゃって、バスに乗ってすぐ切れちゃって。料理作って待っててくれたんでしょ? ごめん。温めなおすね」
まだ不満顔のアキラの横をすり抜けて、ダイニングに上着とカバンを置くとキッチンに立った。
「いいよ。やるから座ってて」
やんわりとアキラに引っ張られた。そのまま位置をくるりと入れ替えられる。
「これ、食後でいい?」
「あ、うん」
冷蔵庫にケーキが箱ごと仕舞われていく。
「立ってると邪魔だから。座ってて」
「……怒ってる?」
「怒ってる。でももういい」
キッチンに立つアキラの後ろ姿はかっこいい。でも、怒りのオーラをばしばし放出している背中を見ているのはつらい。
手を伸ばして、いつもみたいにその背中にくっつこうとして――斉藤さんの言っていた言葉がよみがえった。
『身を固めるんだって?』
それは、誰とのこと?
出会ったのはレストランじゃなかった。
あれはエッセイじゃない。小説の中の話だ。
あたしとは関係ない。
そうだ。
アキラが誰と結婚しようと、あたしには関係ないことなんだ。
「美紀?」
アキラの声にゆっくり顔を上げる。
いつものような自信たっぷりの顔じゃない、不安げなその顔を見るのは初めてだった。
なんだか見ていられなくて足元に視線を落とす。
「どうしたの? 美紀」
「アキラ、結婚するんだってね」
何かが割れる音がした。
はっと顔を上げると、アキラの手の中にあったはずの白い皿が床に落ちていた。
上に載っていたであろう野菜と、ハンバーグが床に散らばっている。
「もったいない……」
しゃがみこもうとしたあたしの肩にアキラの手がかかる。肩に食い込んで痛い。
「誰が言ったの、そんなこと」
押し殺した声。こんな声、聞いたことない。
「やっぱりそうなんだ」
「美紀、聞いて。こっち向いて」
「いいよ。何も言わなくて。あたしそういうの嫌いだし。アキラを束縛したくないから。ごめんね、あたし鈍くって。いままでありがとう」
「聞けって!」
強く揺さぶられる。頭がぐらぐらする。
ああ、そういえばいつからか好きだとか愛してるとか、言わなくなってた。
それが当たり前みたいに……。
「いい。もう何も聞かない」
アキラの手を振り払ってその場にしゃがみこむと、手近にあったビニール袋に割れた皿を入れていく。
床に落ちたハンバーグがまだ熱くて、やけどしそうになって指をなめた。
かかっていたデミグラスソースはとてもおいしかった。
「……なんでいつもそうなんだよ。何にも聞かずに勝手に……」
勝手なのはどっちよ。あたしの知らないところで結婚話が進んでた。
それならそうと早く教えておいてほしかった。
ほかの人からあんな形で知らされる前に、アキラの口から。
そう詰りたかった。
でも、何か言おうと口を開いたら、きっと泣き崩れてしまう。
こんな時に泣くのは嫌だった。
別れ話をされた女が泣いてすがるのって、かっこ悪い。
「そっか。……もう口もききたくない? 俺の独り相撲だったんだな。美紀といつも一緒にいられたらって……そう思ってただけなのに」
愛する人と結婚しても、あたしは離してくれないわけ?
そんなの、奥さんに対して不誠実だ。
床に落ちたキャベツを丁寧に拾っていく。
こっちを見てるのはわかってる。だからもう、放っておいて。見ないでよ。
「……わかった」
アキラが大股でキッチンから出ていく。リビングにから上着とかカバンとか取ってきたのだろう。
ちゃりと金属のこすれる音がした。
あたしは頭を上げずにじっと床を見つめる。
足音はキッチンの入り口で一度止まり、それから玄関まで移動した。
靴を履く音。
鍵を開ける音。
扉が開いて、閉まった音がした。
あたしは止めていた息を吐きだした。
息とともに声が漏れる。
抑え込んでいた涙が流れてきた。
これでいい。これでいいはず。なのに。
「うっ……ふっ……」
抑えきれなくなって、喉がひきつった。
心臓が押しつぶされるように痛む。体の力が抜けて、ぺったりとキッチンに座り込んだ。
両手で顔を覆って、子供みたいに声を上げて泣いた。