2.甘いおねだり
アキラがやってきたのはそれから一時間後だ。
チャイムを鳴らしながら、鍵を開けるのもいつものことだ。
がさがさとビニール袋の音がする。何か買ってきたのだろう。いい匂いもする。
そういえば、お昼ごはん食べてなかったっけ。すっかり忘れてた。
「美紀」
「うん、いらっしゃい。適当にやってて」
振り向きもせずに後ろに手を振ると、腕が伸びてきて後ろから椅子ごと抱きしめられた。
「美紀、冷たい」
「仕事中だから。夕方までに終わらせるから」
「夕方までに終わらせなくていいから、キスさせて」
肩の近くから声がする。顔を上げると甘やかに微笑むアキラの顔があった。
目を閉じる間もなく唇が塞がれる。くるりと椅子ごと回されて、唇が離れると仕事用の眼鏡を奪われた。
両手で頬を包まれて、今度は深く唇を貪られた。
「んっ」
椅子に座ってるおかげで体は密着してない。
アキラの体を押すと、あっさりと拘束は外れた。
「眼鏡、返して」
「まだだめ」
至近距離に顔を近づけてくる。じっと見つめるその瞳は、いつもになく優しくて、胸の奥がぞわぞわする。
「仕事が……んっ」
もう一度押し返そうとした両手を椅子のひじ掛けに押し付けられた。
「だめ。先にご褒美頂戴?」
耳元でささやかれる声はだだ甘で、思わず息とともに声が漏れる。
「だ……めっ」
キスを回避して顔をそむけると耳を食まれた。ぬるりと舐められて、体が勝手に動いてしまう。
たったこれだけのことでさえ、あたしの理性は吹き飛ばされてしまう。
脇の下に腕を差し込まれて、椅子から立ち上がらせられた。
ふらりと足元が揺れたのを、アキラはしっかり抱きとめてくれる。
「美紀。……可愛い」
なんでこんな時に甘々な声で耳元で囁くのよ。
少し身を離してにらむと、また力強く抱きしめられる。
「ご褒美、もらうね?」
こうなったら拒絶の言葉はアキラを萌えさせる燃料にしかならない。
精一杯首を横に振ったけれど、軽々と抱き上げられて寝室へ連行される羽目になった。
◇◇◇◇
「それで、本当にあれ、読まなかった?」
「しつこい」
事後のピロートーク、と行きたいところだけれど、あたしは仕事部屋に戻っていた。
幸いなのは、アキラも締め切り明けでヘロヘロだったこと。
フルパワーの時は朝まで抱き潰されるからね。
一戦交えてシャワーを浴びたあと、遅いお昼ごはんを食べて作業を再開した。
アキラはいつものように、折りたたみ椅子を引っ張り出して横に座っている。
作業の手元を覗き込んだりモニターを眺めたりして、ちょっと気が散る。
「レイアウトに流し込んで文字数確認しただけで、保存してないわよ。何なら送ってきたファイル、削除しようか? メールごと」
「えっと……メールはいいけど、解凍したファイルは消してくれる?」
「はいはい」
アキラはなぜかあたしに自分の作品を読まれるのを嫌う。
だから、彼の作品を読んだことはない。
あたしが担当編集になってたらどうするつもりだったんだろう。
……まあ、彼は駆け出しだし、あたしとの関係も編集長は知ってるから、あたしを担当にすることは絶対にないとは思うけど。
「はい、消しました」
「ごみ箱も空にして」
「はいはい」
マウスを操作して、ごみ箱の中身も空にする。
「ところで、今回のお題はなんだったの?」
お題、というのはアキラが寄稿した特集ページのお題だ。
今月の特集は『夏に読みたいコイバナ』だったと思うけれど、なんでアキラに声がかかったんだろう。
アキラはどちらかといえばホラーやミステリー畑の人だ。
「海辺の恋」
「へえ」
なるほど、だから海に行きたがったのか。
考えてみれば、海辺でデートとかしたことなかったな。だから行ってみたかったのかもしれない。
「で、イイもの書けた?」
「うん、まあね」
「そう。よかったね」
イイ子イイ子、と手を伸ばしてアキラの髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。シャワったばかりだからまだ少し湿ってる。
「じゃあ、もう少しかかるから寝てたら?」
「ここにいる」
「そう?」
いつも締め切り後はくたくただから、ベッドに行って泥のように眠るのに。
しかも今日はわざわざここにきて、やることやった後だ。すぐに眠くなるに違いないのに。
「……アキラ、どうかした?」
くるりと椅子を回してアキラに向きなおると、あいまいな表情で首を横に振る。
「何にも。ただ、美紀が可愛いなって思っただけ」
「……そういう死亡フラグみたいなセリフ、やめてね」
「はいはい」
「眠いなら寝てて」
「起きてる」
少し意固地になってるのかも。
仕方なく椅子をくるりと回すとそのまま作業を再開した。
◇◇◇◇
結局その日はアキラはうちに泊まった。もちろんエッチなことはなし。アキラはヘロヘロだし、あたしも疲れてたし。抱き枕になってあげただけだ。
そして今日は朝からアキラの機嫌が悪い。
締め切り明けで遊びたいのはわかるんだけど、今日はあたしのほうが仕事で外出だ。
じゃあ近くまで行って終わるの待ってると言ってくれたけど、まだ眠たそうなアキラは置いていくことにした。
編集部に顔を出すと、にやにやしながら編集長が寄ってきた。
「おはようございます」
「おう、それより彼の最新作、読んだか?」
「え? いえ。いつも通り読んでませんけど」
「これ、絶対読むべきだよ。お前、愛されてんなあ」
「はぁ?」
プリントアウトしたアキラの原稿をぐいぐい押し付けて、編集長は出て行った。
押し付けられたものの、アキラとは読まないと約束している。
編集長の机の上に伏せて置き、自分の席に座るとパソコンを立ち上げた。
辞めた新人の仕事を確認し、届いたメールの対応をする。
新人が担当していた作家の担当はすでに割り振り済みだ。結局自分が担当した雑誌の初号すら見ずに辞めたんだよね。
せっかくだから完成まで見てからやめればいいのに。
ピロリン、とスマートフォンが鳴る。
『晩御飯なにがいい?』
アキラからだ。今日は外食しようって話になってたけど、どこに行くかは決めてなかった。
『何でもいいよ。お任せする』
『じゃあ、俺が作る』
『わかった』
短く返してため息をつく。
ご褒美の延長のつもりだったんだけど、本人が作っちゃご褒美にならないでしょうに。
アキラの料理は美味いからうれしいけど……。
『なんか編集長から読めって原稿押し付けられた』
『読んだの?』
大汗書いてるスタンプが飛んできた。
『読んでないよ。アキラとの約束だから』
『よかった……絶対読まないでよ?』
「はいはい」
返事を送ると机の上に伏せておく。
作業に没頭しながら、海辺の恋、というキーワードで昔のことを思い出していた。