相互溺愛式政略結婚
右近八尋なんていう名前がよくなかった。
幼少期から、「うんこ」といじりたおされ、もはや自分の名前は「うこん」なのではなく「うんこ」ではないのだろうかと小学生の頃の彼は常々考えていた。
しかし、右近八尋はとても美しかった。
すっと引かれた平行二重に、高い鼻。男性にしては多めの睫に、華奢な体つき。
中学に入ると、「ウンコ」単体だったあだ名が、その美しい容姿へのリスペクトを込めてか「ウンコバンビ」というあだ名にシフトチェンジ。
本人もここまでくると、「うんこやひろ」と言われても特に気になる事などなく、「ウンコバンビ」と呼ばれながらも男友達たちと仲良くやっていた。
しかし、それを女子は許さなかった。
八尋の親衛隊に限りなく近い何かの皆さんは、男子達が八尋の事を「ウンコ」と呼ぶのが許せず「私達だけでも、八尋君の事をちゃんと愛してあげようね♡♡」なんていう勝手なお節介を焼き、新たにあだ名を作りだした。
そのあだ名は「うんプリ」。
「右近君マジ王子様様」の略だが「うんこの王子様」とも取れる所に彼女たちは気づいていないのだろうか……なんて思いながら、八尋は「うんプリ」と呼ばれ続ける高校時代を送った。
大学時代も社会人になってからも、右近八尋は美しかった。
しかしその美しさ故、いつも勝手に「みんなの右近君協定」を結ばれるお陰で、結局八尋は今日まで誰とも付き合わずにアラサーを迎えていた。
「ああ、彼女が欲しい」
八尋は、喫煙所でタバコの煙を吐きながらそう言った。
八尋自身、自分が特別格好がいいと思っていない。ただ、何と言うか女子にきゃいきゃい言われる性質というか。アイドル体質というか。自分はそういう謎の力の持ち主なんだろうなぁとどんより考えていた。
八尋のそんな言葉に、喫煙所は軽い笑いに包まれた。
周りからすれば、あんなにも女性社員に王子様扱いされている八尋の口から「彼女が欲しい」なんて言葉が漏れてもそれはもはやギャグにしか思えないからだ。
「右近、お前あっちなんじゃねーのか?」
「違う、何でそうなるかな」
八尋行きつけの、社内喫煙所。八尋はいつもそこでホモだと笑われていた。
それでも、八尋はこの喫煙所が気に入っていた。
女性もあまりいないから、女性社員の目を気にせず、本音で話す事が出来る唯一の場所。八尋は灰をとんとんと落とした後にまた大きく息をついた。
八尋とて男だ。恋をした事だってある。
それでも、その子にメールアドレスを聞いてみたり、少し話しかけてみれば、周りが黙っていなかった。「みんなの右近君協定」は八尋が思っている以上に厳しいものであったのだ。
八尋が少し好意を寄せていた女の子が、「みんなの右近君協定を破った」という事で処刑されかけているのを見て八尋は怯えてしまい、すっかり恋から遠ざかってしまった。
(本当にこのままでは、一生独り身なんじゃないか……?)
八尋は、アラサーの領域に足を突っ込んだという事もあって流石に焦り始めていた。
でも、普通に恋をしようと思っても周りが許してくれない。なんだ、俺はいつの間にかジェニーズ事務所に所属していたのか?なんて思うような状況に八尋はまたため息をつく。
ああ、もうマジでだめかも……。なんて思いながらポケットの中からぐちゃぐちゃになったタバコの箱を取り出そうとした時、横にスライドする式の喫煙所の扉が勢いよく開いた。
「おい、右近。社長が呼んでる!!」
焦った様子でそう告げたのは、八尋の上司であった。
八尋は何事!?なんて思いながらも、急いでタバコをポケットにしまい、エレベーターのある方向へと走っていた。
八尋が社長室に足を入れると、ふっくらとしていかにもいい人そうなオーラがぷんぷんと漂っている社長が、くるりと椅子を回転させてにこりと八尋に微笑みかけた。
この社長室と透明ガラス越しに繋がっているマネージャールームでパソコンのキーボードを叩いていた秘書の方を少し目が合えば、これまた微笑みかけられる。
いつ来ても、ここスタイリッシュだよなぁ。なんて思いながら八尋は「右近八尋です」と言った。
(やばい、タバコの匂いしてるかも……)
八尋はそんな事を考えながら、やけにニコニコしている社長の姿を見た。
こうやってニコニコ笑う社長と対面するのは二度目だ。以前は、優秀社員賞を受賞した時こんなニコニコ笑顔の社長と対面した。
「右近くん」
八尋は自分の名前が呼ばれて、ぴんと背筋を伸ばした。
「きみ、結婚してるかね」
「……していません」
「そうなのか? きみは随分女性社員に人気だと聞いたが」
誰に!?八尋はそう言いかけたが、先ほどの秘書さんがばちんとウインクをきめてきているのを見て八尋は全てを察した。「ほげえ」と声がでそうになったが必死に我慢しにこりと笑う八尋。この数年間で身につけた営業スマイルだ。
「……恋人は、居たことがありません」
アラサーの非モテ自慢ほど哀愁ただようものはない。
周りの左指の薬指がどんどん指輪で埋まっていく中、八尋の指はまだまっさら。
「そうか。意外だね」
本当に、俺もそう思ってる。と八尋は脊髄反射のごとく答えかけたが、相手は社長。そう思いぐっと言葉を飲み込んだ。
(ああなんだよこの話の流れ……)
きっと、何か大事な話があってそれの導入として八尋のどうでもいい恋愛話でも持ってきたのだろう。
もしかしたら、新しいプロジェクトに配置してもらえるのかも?いや、でもそんなの社長直々に……?と八尋は、ニコニコと笑う社長の前でぐるぐると考えていた。
「右近君、私の娘と結婚しないかね」
「……へ?」
八尋は、予想外過ぎる社長の言葉に目をぱちくりとさせた。
聞けば、社長は「仕事もできて、容姿もいい」男性社員と娘を結婚させたいと常々考えていたらしい。
社長の机の上には「できるイケメンあみだくじ」なるものが書かれた紙があり、八尋もよく知ったこの会社きってのイケメンたちの名前が並んでいた。
……どうにも、自分はこのあみだくじで当たりを引いたらしい。八尋は、すっと腕でその紙を隠す社長を見ながら冷静にそう考えていた。
「お、俺は本当に普通の家の出ですよ」
「ああ。構わない。長女も次女もこうやって結婚させてうまくいっておる」
社長のにんまりとした笑み。
(確かに、社長の娘さんと結婚した人が社内に居るって話は聞いた事あるけど……)
まさか、自分にその話が回ってくるなんて。……夢かな?なんて思いながら八尋は自分の手の甲をつねってみる。
八尋からすれば、願ってもみない状況だった。
出世コース間違いなし。逆玉の輿。それに社長の娘さんとなれば、流石に女性社員たちも黙るに違いない。
「お、俺でいいなら!!!!!」
八尋は胸に手をやってそう言った。
社長はそんなにも八尋があっさりと承諾するとは思っていなかったようで、目をほんの少しぱちくりとさせたが、すぐにまたにんまりと笑って「よろしい」と言った。
一方、茶色のゆるやかな髪を揺らしながら、社長室に向かっている女性が居た。
その表情は憂いを含んでいて、歩く度にはああ。とため息が漏れだしている。
「美沙子お嬢様、そんなに暗くならずに」
美沙子お嬢様。そう呼ばれた彼女こそが、この「東雲グループ」の社長の娘である「東雲美沙子」であった。
後ろから何度もご機嫌取りの言葉を並べる、ぴしっとスーツを着こなしたお付きの新宮にまたため息をつきながら美沙子は重い足取りで社長室に向かっていた。
「……結婚なんて、まだしたくないのに。しかもお父様が勝手に決めた相手なんて……それに社長室で対面なんて……」
そう言ってしまえば、またため息が漏れた。
(お父様は、自分の気に入った社員と娘を結婚させたがる。お姉さまが二人ともそうだったもの……)
美沙子はまたため息をついた。
この大会社の社長の娘として生まれて。そして、姉たち二人がそうやって政略結婚をし、旦那様が会社でどんどん出世しているという事も美沙子はよくよく知っている。
(お父様は、気に入っている社員さんを跡取りにでもしようと思っているのかしら)
東雲家には男児がおらず、三姉妹がいるだけであった。
姉二人は大学を出てすぐに結婚したが、美沙子は今までだらだらと結婚を断わりつづけて家事手伝いをしてきた。
それでもタイムリミット。
ああ、いつかこうやって政略結婚させられるとは思っていたけれども。
美沙子は、俯きながら「失礼します」と言って社長室に足を踏み入れた。
その瞬間、八尋と美沙子の目がばちっと会った。
お互いが、おそらくこう考えていた。
「政略結婚なんだし、相手がどんな人であろうとも仕方ない」と。
しかし、このそんな考えは、顔を合わせた瞬間に消え去った。
(やばい、なにこの可愛い人。待って。ヤバい。可愛い。ヤバい)
真っ白な肌に不安げに下がる眉。ぱっちりと大きな目に柔らかなウエーブのかかった髪。守ってあげたくなる系女子の代表的選手な美沙子に八尋は一瞬で心を持っていかれた。
そして、美沙子も美沙子だった。
(わ、わたしがずっと追い求めていた王子様がいま目の前に……!)
八尋が「うんプリ」なんて言われている事を全く知らない美沙子。それなのに美沙子は八尋を見るなり速攻王子様認定した。
((こんなに素敵な人と結婚できるなんて……!))
でもちょっと待てよ。
あっちはきっと「政略結婚」だとしか思ってないし。
自分がこんなに一瞬で惚れたなんて言えば引かれるに決まっている。
美沙子も八尋も、お互いの顔をぽっと見つめた後、ぶんぶんと顔を横に振って心にとある事を誓う。
あっちはきっと、ビジネスだとしか思っていないはず……嫌われないように控えめでいなければ。と。
「右近八尋です」
「東雲美沙子です」
そう言ってお互い頭を下げる。
お互いが心の中では「なんて素敵な名前……」なんて思っていたこの瞬間からバカップルへの道は始まっていたのだ。
*
その日から、八尋と美沙子の「結婚を前提にしたお付き合い」が始まった。
本当はお互いが「今すぐこの人と結婚したい!!」なんて脳みそを沸騰させながら思っていたが、相手の事を考えるとそんな事を言える訳もなく「結婚を前提にしたお付き合いから」となったのだ。
その日、八尋は集合場所である、駅前の「どういう意図で建てられたのかよく分からんオブジェ」の前で何度も何度も時計を見ていた。
早すぎたかも。でも、美沙子に会えると思えば、いてもたってもいられなかった。
「ほげえええええええ」
一方美沙子も、八尋との初めてのデートという事で、駅前に向かう車内の中で緊張のあまりそんなお金持ちのご令嬢らしからぬ声を出していた。
緊張でぶるぶると震える美沙子の背中を、新宮は不安げにさすっている。
「どうしましょう、どうしましょう新宮……私なんかが、八尋様とデートなんてしていいのでしょうか」
「お嬢様、お気を確かに」
美沙子は不安でしょうがなかったのだ。
自分は八尋の事を王子様と思い好いているが、八尋はきっと自分を出世する為の駒としか思っていないだろうと。
ああ、でもそれが政略結婚ですよね……なんて自分に言い聞かせてみるが、やはり王子様は王子様。
ちら、と車内から「どういう意図で建てられたのかよく分からんオブジェ」の前で時計を確認している八尋の姿を見れば、美沙子はどうしようもなく胸がきゅんとしてしまっているのに気が付いた。
(ああ、こんな風に慕ってもきっと八尋様の迷惑になるだけだわ)
ぎゅっと目を瞑ったあと、美沙子はぱっと車のドアを開けて、八尋の元へと駆けた。
平常心、平常心。なんて唱えながら。
「八尋様!」
「……美沙子さん」
にこ、と笑う美沙子に八尋は胸がきゅうっと痛くなり、好きってこういう事ね。なんて勝手に考えたりしていた。
「俺の事は『様』付けなんかしなくていいのに」
と八尋が笑う。美沙子も美沙子で、そんな八尋の横顔が素敵で何だか泣いてしまいそう。なんてぼんやり考えていた。
それでもそんな事を口に出す事もなく、また「八尋様」と微笑んで見せた。
二人とも、自分の感情を隠すのが上手かった。
八尋はこの長い「うんプリ」人生のお陰で。
美沙子は幼い頃からの「お嬢様教育」のお陰で。
「美沙子さん、デートなんですけど……どこに行きましょうか」
「八尋様は、慣れていらっしゃるでしょう? 八尋様にお任せします」
美沙子はそう言った瞬間泣き出しそうになった。
そりゃあ、そりゃあこんな素敵な王子様八尋様なんだから私との前には様々な女の子と……。なんて考えてしまったからだ。
八尋は、美沙子のそんな美沙子の言葉に苦笑しながら口を開いた。
「恥ずかしい事に、俺は女性とこうやってデートするのが初めてなんです」
「八尋様、そのギャグはおもしろくないですわ」
八尋は、じとっとした目で自分を見てくる美沙子にまた笑った後、少し遠くを指さした。
美沙子が頭上にクエスチョンマークを掲げながら指をさされた方を見れば、こちらをじっと覗いている女性の軍団が。美沙子と目が合えば皆さんにっこりと笑った後頭を下げてくれる。
「俺をうんプリに仕立てあげてくれた皆さんです」
八尋はそう言って笑った。
美沙子はますます首を傾げてしまう。
そんな美沙子に八尋は、自分の「うんプリ人生」を語った。
(可哀想な人……でも、でも良かったああ!!!)
美沙子は表情には出さなかったが、八尋の「うんプリ」ストーリーを聞いて、「みんなの右近君協定」なんてものを考えてくれた人に感謝をした。
「美沙子さんは、社長の娘さんですし、流石に誰も口出ししないと思うんです」
八尋はそう言って笑った。
(ああ、そうね。そうよね。やっぱり八尋様は私の事を「社長の娘」としか見てないわよね……)
なんて美沙子は落ち込んだが、八尋の笑顔を見れば、また胸がきゅんとして笑みがこぼれてしまう。
八尋も八尋でそんな美沙子を見て「かわいい……」なんて思っているのだが。
その日、美沙子のリクエストで二人は「庶民的なお店」で食事を取る事に。
普段なら新宮に絶対止められるようなお店で食事をとる事を、美沙子はずっと憧れていたのだ。
疲れ切った顔のサラリーマンが黙々と牛丼を食べる横で「八尋様、このお店はとっても早く『ぎゅーどん』を提供してくださるのね!」なんて言う美沙子はかなり浮いていた。
八尋も八尋で牛丼も食べに来た事ないのかこの人?なんて思っていたが、牛丼をはむはむ食べている美沙子を見れば、異国のお姫様を接待しているような気分になって、少し心地良かった。
「八尋さんは、タバコを吸われるのね」
「え? ああ、はい、えっと、まぁ……」
帰り道、突然そうぽつりと言った八尋は、美沙子の前ではタバコを吸わないようにしていたのになぜばれた!?と内心焦っていた。
タバコの煙を嫌う女性は多い。美沙子はお嬢様。好いている訳がないだろうと思って八尋はこっそりポケットの中のタバコをぎゅうっと押し込んだ。
「吸って頂いて、良いですよ? 私は大丈夫です」
「でも副流煙とか色々ありますし……」
八尋がタバコを吸い始めた理由は、喫煙所という逃げ場が欲しかったから。
美沙子が、少し視線を落とすのを見て、八尋は帰ったら禁煙の方法を調べようと考えていた。
「八尋様がタバコを吸ってる姿、きっと素敵ですわ」
美沙子はそう言った瞬間大後悔した。
(私のバカ!!!! 八尋様に好意があるのバレバレじゃない!! ああ、八尋様に迷惑をかけてしまう……)
美沙子は心の中で大反省会を行っていたが、八尋は「タバコ万歳」なんて万歳三唱していたのでどっこいどっこいである。
「副流煙は、美沙子さんの体に良くないと思うのでやめておきます」
「え、えそうかしら……そんな事気になさらなくても……」
だんまりとした沈黙。
こつこつという美沙子のヒールの音だけがこの世界の音の全てなんじゃないかと思える位の夜。
二人は夜の街灯に照らせながら同じ事を考えていた。
((ああ、本当にこんな素敵な人と結婚できるなんて))
自分しか惚れていない、と両方が勘違いしているそんな二人。
本当は、惚れあってるただのバカップル。なんている事実に二人が気づくのはもう少し後の話である。