part.2
――ブレザー地区南東部農村地域――
その村は、現在実りの時期を迎えていた。人々はせわしなく働き、それでも、それまで労力を注ぎ育ててきた作物を得ることに至福を感じていた。
その村は決して豊かではない。何か発展した街もなければ、市街地で普及している便利な機械類もほとんどなかった。しかし、この村の人々にそんな物は必要なかった。なぜなら彼らは“生きること”自体に喜び、感謝していたからだ。田畑を耕し、清らかな水を飲み、優しく揺れる森に癒されながら生活する……それもまた、贅沢の形と言えるのかもしれない。
……そんな喉かな村の農道を、息を切らして走る一人の少女がいた。
「はっ……はっ……」
その少女は朱色の三つ編みが特徴的だった。身長はやや低いが、太い眉とつぶらな瞳、そして、目の下のそばかすが素朴ながらも清楚さを感じさせる少女であった。青色のロングスカートのワンピースを身に纏い、彼女は走っていた。その手には、白く綺麗な菜の花があった。
「神父様ー!」
目的の場所が見えた少女は、おそらく庭にいるであろうその人物の名前を呼んだ。その名前を聞いて反応したのは、町はずれにある教会の神父であった。
彼はこの町の神官を20代前半にして務めており、長身で優しさと慈愛に溢れる笑顔を常に周囲に振りまいていた。故に、彼はこの町にとっては、かけがえのない人物でもあった。
彼は教会の庭で行っていた手入れを一時中断し、手を振りながら走ってくる少女にその笑顔を送り、手を振り返していた。
「神父様ー!! 神父様ー!!!」
その神父の姿を見た少女は心をときめかせ、あまりの嬉しさに何度も神父の名前を呼んでいた。やがて神父の元に辿り着いた少女は、両手を膝に置き、息を整え始めた。
「そんなに慌てなくてもいいですよ、アンナ」
目の前で肩で息をする少女――アンナに対し、変わらない微笑みをしながら語り掛ける神父。そんな神父の声を聞いたアンナは、汗が滲む顔を上げて、手に持っていた菜の花を神父に差し出した。
「これ、見て下さい! 綺麗ですよ!!」
アンナは太陽のような笑顔を見せた。そんなアンナの姿を見た神父は、つい頬が緩み、アンナの朱い髪をゆっくりと撫で始めた。そんな神父にアンナは、自分を子ども扱いすることに不満を感じつつも、満たされる心を実感し、頬を桃色に染めていた。
ふと神父は、それまで浮かべていた表情に違う一面を覗かせた。
「確かに綺麗ですね。――でもねアンナ。花だって生きてるんですよ? そうやってむやみに採ってしまうのは可哀想だ……」
神父の表情は穏やかだった。話し方も“叱る”というより“諭す”と言えるほど優しい物言いだった。それでもアンナは叱られたような気分に陥っていた。身を小さくし、肩を落としている。
神父は、そんなアンナを見て困ったように微笑み、再び諭すのであった。
「……アンナ、今度その花が咲いているところに案内してくれませんか? 採るのは可哀想ですが、見るとなると花も喜ぶでしょう」
「……はい!」
神父の言葉にアンナは再び笑顔を取り戻した。そんなアンナを見た神父は、少し満足した表情を浮かべた。
それからしばらくアンナは神父の手入れを手伝った。花の水やり、協会の掃除……それが終われば、今度は話をした。何気ない、世間話だった。しかし二人は時間を忘れ、笑い合いながら話をした。
夕暮れ時が近づいた時、神父は急に表情を曇らせた。そして、横に座るアンナに話し始めた。
「さて、そろそろ帰りなさい。もうすぐ日暮れだ。……このところ、血族の噂が頻繁に耳に入っていてね……
実際はいるのかはわかりませんが、用心するにこしたことはない。だから、今日は早く家に帰りなさい」
そう話す神父の顔は真剣そのものだった。アンナにとって、それは初めて見る顔だったのかもしれない。アンナからはそれまで見せていた笑顔は消え、活発に話していた言葉はなくなり、神父の話にただ頷いていた。
この村では最近、住民が消えるという現象が起こっている。昨日までいたはずの人物が、忽然と姿を消していたのだった。村では未だかつて起こったこともない現象だったが、村民にとって、その理由はすでに見当がついていた。誰からともなく、噂にも似たその話は、村中を駆け巡っていた。
……“血族の仕業”と。
その噂は、村全体を恐怖に落とすには十分なものだった。
だが、噂が広がり人々が恐怖する中、神父は村の人々に言葉を送った。それは夜は外出しないことやイェーガーに救援依頼をするなど、極々一般的なことに過ぎなかったが、それでも恐怖に怯えることなく、勇気を持って住民を励まし続けた神父の姿に、村の人々は英雄の面影を映していた。
アンナもその一人だった。……いや、アンナにとっての神父は、英雄以上の存在であった。どんな時でも笑顔を振り撒き、どんな時でも凛々しく、どんな時でも優しい……
アンナは、そんな神父に尊敬の念を送るとともに、仄かな好意を抱いていた。それは叶うことがないかもしれない。一方的な想いで終わるかもしれない。……それでも、アンナは神父の元に通い、彼に会い続けた。それだけで、少女は幸せだった。
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そこは、村の果てにある崖の上。人が近寄らない場所。そこに、一つの影があった。その影は崖から村を見下ろす。冷たい視線で街を隅々まで見渡していた。
その目には、協会の庭からアンナに手を振り見送る神父と、笑顔でそれに答え協会から走り去るアンナの姿も映していた。
……影は、ニヤリと笑う。
村にはまもなく夜の帳が訪れる。暗い夜が。粛々と、ゆっくりと……