「二度と顔を見せるな」と言われたので仮面で登城していたら、元婚約者が仮面の私に求婚してきました
「二度と俺の前に顔を見せるな!」
夜会の大広間に、殿下の声がよく通った。さすが王太子殿下、発声だけは毎朝の練習の成果が出ている。
エドモン殿下の隣には、桃色のドレスの小柄な令嬢がいた。男爵家のリリアン様だ。殿下の腕にちょこんと手を添えて、目をまんまるにして私を見ている。
「セシル・ラヴァル。お前との婚約は破棄する。お前は口うるさい。書類だ予算だ席次だと、俺の顔を見るたびに小言ばかりだ」
「さようでございますか」
「俺はリリアンと、真実の愛を見つけたのだ」
楽団のヴァイオリンが一本だけ、間の抜けた音を出して止まった。
「かしこまりました。ひとつだけ、よろしいでしょうか」
「なんだ。今さら泣きついても遅いぞ」
「収穫祭の席次表ですけれど、西の列がまだ半分ですの。どなたに引き継げばよろしいかしら」
「そんなもの、ルークにでもやらせておけ!」
広間の隅で、補佐官のルーク様がこめかみを押さえるのが見えた。
「かしこまりました」
私はもう一度礼をして、下がった。泣きもしなかったし、叫びもしなかった。殿下が少し物足りなそうな顔をしたのは、たぶん気のせいだ。
帰りの馬車で、私は膝の上で手を組んで考えた。
婚約は破棄された。それはいい。いや、よくはないけれど、まあいい。
三年間、殿下が私の席次表をまともにご覧になったことは、一度もなかった。お父様には明日、手紙で知らせよう。きっと「好きにしなさい」と返ってくる。お父様は、昔から私の頑固に慣れている。
問題は、王太子執務室の補佐のお役目だ。あれは婚約とは別に、三年前に陛下から直々に賜ったもので、今夜、誰も取り消していない。
しかも十日後には収穫祭がある。殿下の主催で、招待客は三百人。席次表も予算書も、まだ半分しかできていない。残りの半分の中身を知っているのは、王宮で私だけだ。
「殿下は、顔を見せるなと仰った」
声に出すと、馬車の揺れに合わせて理屈がことりと胸に落ちてきた。
「来るな、とは仰っていませんわね」
窓の外を、王都の灯りが流れていく。
「……仮面を買いましょう」
自分で言っておいてなんだけど、婚約破棄された夜に最初に考えることではない。
翌朝。私はいつもの時刻に、いつもの廊下を歩いて、王太子執務室の扉を開けた。
仮面の店は、夜のうちには開いていなかった。仕方がないので、衣装箱の底から二年前の仮面舞踏会のものを出してきた。金の縁取りに、孔雀の羽が三本。
少し、派手かもしれない。
「おはようございます、ルーク様」
隣の机のルーク様が、書類から顔を上げた。眼鏡の奥の目が、私の顔を、というより孔雀の羽を見て、止まった。
ルーク様は無言で書類の束を持ち上げ、自分の顔を覆った。
「……セシル様、ですよね」
「顔は見せておりませんので」
「見せていないのは分かります。羽が三本見えています」
「殿下のご命令は、顔を見せるな、でしたもの。来るなとは仰っていません」
「その解釈、昨夜ひと晩かけて組み立てたんですか」
「馬車の中で、五分ほどですわ」
「殿下に気づかれたら、どうなさるんです」
「そのときは、そのときですわ。ですが、気づかれるかどうか」
「……そこは、私も正直、疑っています」
書類の向こうで、ルーク様が長い息を吐いた。それから書類を少し下げて、眼鏡を押し上げた。
「収穫祭の席次表、続きはどこからです」
「西の列の伯爵家からですわ。マルセル伯とデュボワ伯は隣にすると、三年前の葡萄畑の件でまた揉めますので」
「では、そこからですね」
ルーク様は、それ以上なにも聞かなかった。
私の机には、いつものように削った羽ペンが二本、揃えて置いてあった。私が来ると、分かっていたみたいに。
扉が開いた。殿下だ。
殿下は私の机の前で立ち止まり、孔雀の羽をしげしげと眺めた。
「誰だ?」
ルーク様の書類が、すっと上がった。
「……新しい補佐官です」
「そうか。妙な仮面だな。羽が多い」
「三本でございます」
「数は聞いていない」
「事情がございまして」
私が答えると、殿下は「ふうん」とだけ言って、自分の机に向かった。
——いや、気づけ。声も同じだ。
二日目から、仮面は日替わりになった。
「あの羽では目立ちすぎますわ、セシル様」
侍女頭のジャンヌが、朝いちばんに執務室の前で待ち構えていた。手には、黒い布で縫った蝶の仮面がある。
「ひと晩で縫いましたの。明日は猫、明後日は月です。若い子たちが張り切っておりまして」
「ジャンヌ。わたくし、顔を隠したいだけなのですけれど」
「存じております。ですから、可愛く隠すのです」
「でも、ジャンヌ。わたくし、婚約を破棄された身ですのよ」
「存じております。ですから、お戻りになってようございました、と申し上げているのです」
ジャンヌの目が、少し赤かった。夜なべのせい、ということにしておく。
廊下に出ると、衛兵がかかとを鳴らした。
「おはようございます、セシル様!」
「……おはようございます」
階段の上からは、宰相閣下が書類を振りながら降りてきた。
「おお、セシル殿。例の予算の件だが、厩舎の飼い葉代はこの数字でよかったかな」
「去年より麦が安いので、一割ほど下げられますわ」
「さすがだ。いや、助かった」
昼には、厨房の料理長がじきじきに盆を運んできた。
「仮面のままでも召し上がれるように、ぜんぶ一口大に切っておきました」
「まあ。ありがとう存じます」
誰も、仮面のことは聞かなかった。
三日目の朝には、扉の隙間から白い髭がのぞいた。
「おお。今日は猫か」
「へ、陛下」
「よいよい。続けよ。わしは見物に来ただけじゃ」
陛下は満足げにうなずいて、お帰りになった。そのあいだ殿下は、ずっと書類の山の陰で居眠りをしていらした。
その日の午後、殿下が猫の仮面の私の机にやって来た。
「仮面の君。昨日の進言はよかったぞ。収穫祭の葡萄酒を、領地ごとに出し分けるというやつだ」
「恐れ入ります」
「前の婚約者は、口うるさいだけだったからな。同じような話でも、君が言うとすっと胸に入る」
その進言、去年の秋から四回申し上げております。
四回目のとき、殿下は「また葡萄酒の話か」と耳をふさいでいらした。
隣の机で、ルーク様の羽ペンがぽきりと折れた。
翌日の夕方、扉が控えめに叩かれた。
「失礼しまーす。殿下に焼き菓子を……あっ」
リリアン様だった。籠を抱えたまま、月の仮面の私を見て、ぱっと顔を輝かせる。
「セシル様! そのお面、かわいいですね!」
執務室が、しんとした。
ルーク様が書類を持ち上げかけて、途中で止まった。殿下は窓辺で、鳩に向かって何やら詩の推敲をしていらした。
「リリアン様。わたくしは、新しい補佐官ですわ」
「あっ、そうでした! 新しい補佐官のセシル様!」
「……ええ。それで結構ですわ」
リリアン様は籠から焼き菓子をひとつ出して、私の机にそっと置いた。それから、殿下に聞こえないくらいの声で言った。
「あの夜は、ごめんなさい。殿下があんなに大きな声を出すと思わなくて、止められなくて」
「リリアン様が謝ることではありませんわ」
「じゃあ、お菓子は受け取ってくださいね。仮面でも食べられるように、小さく焼いてきました」
料理長と同じ発想だった。
衛兵も、宰相閣下も、料理長も、リリアン様も。
気づいていないのは、殿下だけだった。
この王宮は、親切まで一口大だ。
五日目、殿下が仮面の君を口説き始めた。
「仮面の君。好きな花は何だ」
「葡萄ですわ」
「葡萄は花なのか」
「収穫祭の予算書の上では、いちばん大切な花ですわ」
「なるほど。君は面白いな」
三年間、似たようなことを申し上げてきて、面白いと言われたのは初めてだった。
夕方になると、殿下はもう一度やって来た。
「仮面の君。君のために、詩を用意した」
殿下が懐から羊皮紙を取り出した。咳払いをひとつ。執務室の空気が、一斉に固まった。
「まっすぐな背は、朝いちばんの羽ペン。インクの染みた中指は、誰かの間違いを黙って直した……いん」
殿下の指の先、羊皮紙のいちばん下に「印」の一字が見えた。たしかに、いんとも読める。
「……しるし、です」
隣の机から、ルーク様が小さな声で言った。殿下の読み違いをそっと直すのは、三年前からルーク様のお役目だ。
「そうだ、しるしだ。君が席を立つと、この部屋は少し、静かすぎる」
殿下は満足げに羊皮紙を畳んだ。
「どうだ。昔書いたものだが、君にこそふさわしいと思ってな」
「……素敵な詩ですわね」
「だろう。ルーク、お前もそう思うだろう」
「……はい。とても」
返事をしたルーク様は、書類で顔を覆っていた。笑いをこらえていらっしゃるのだろう。気持ちは分かる。
私は、黙って自分の中指を見た。インクの染みが、今日もついている。
三年前の冬、殿下から一通だけ手紙が届いた。婚約して、最初の冬だった。中身は詩がひとつ。私の顔をろくに見ない方が、どうして私の指のインクを知っているのだろうと、不思議に思った。不思議で、少しだけ嬉しかった。
その手紙は、今も私の机の引き出しの奥にある。
翌日も、その翌日も、殿下は仮面の君に話しかけに来た。ルーク様の眉間の皺は、一日ずつ深くなっていった。仕事が増えたせいだろう。
あの詩、三年前に私がもらったものと一字一句同じだった。
使い回すなら、せめて私のいないところでやってほしい。
収穫祭の三日前の夜、執務室には私しかいなかった。
蝋燭を一本だけ灯して、席次表の最後の列を埋めていく。済んだら、引き継ぎの書類をもう一枚。今夜で三十一枚目だ。三百人ぶんの名前と、三百人ぶんの機嫌。誰と誰が仲がよくて、誰と誰が葡萄畑で揉めたか。
「まだ残っていたんですか」
扉のところに、ルーク様が立っていた。手には湯気の立つ茶器と、麦わらが一本。
「仮面のままでも飲めるように。厨房で一本、もらってきました」
「まあ」
麦わらを挿したお茶を受け取ると、思ったよりちゃんと飲めた。
「少し、子どもに戻った気がしますわ」
「似合っています」
「仮面がですの、麦わらがですの」
「両方です」
そう言ってから、ルーク様は私の仮面を指さした。
「外してもいいですよ。殿下はもう、とっくにお帰りです」
「殿下は、よく忘れ物を取りに戻っていらっしゃいますもの。印章とか、手袋とか、ご自分の帽子とか」
「……たしかに」
ルーク様が小さく笑った。
「では、せめて肩の力を抜いてください。羽ペンが泣いています」
「泣いていませんわ」
「三本目です、今夜」
しばらく、羽ペンの音だけがした。ルーク様は自分の椅子を引いてきて、私の机の端で予算書の検算を始めた。頼んではいない。三年間、いつも頼んではいない。
「セシル様。どうして、辞めなかったんですか」
「席次表、わたくししか作れませんもの」
「それだけですか」
ペンが、止まった。
「……それだけですわ。ルーク様こそ、どうして殿下に仰らなかったの。新しい補佐官だなんて」
「言ったら、あなたは本当に来なくなるでしょう」
「それは、まあ。ご命令ですもの」
「だから言いませんでした」
検算の手を止めずにそう言って、ルーク様は数字を一つ書き直した。私が見落としていた、銀貨三枚ぶんの誤りだった。
それから眼鏡を外して、蝋燭のほうを見たまま続けた。
「あの夜のあと、皆、あなたはもう来ないと思っていました」
「ジャンヌさんは、毎晩仮面を縫っています。料理長は、昼食を一口大に切っています。衛兵は全員、あなたに敬礼しています。宰相閣下は、あなたの机に書類を置いていきます」
「ええ」
「皆、あなたに戻ってきてほしかったんです」
少しだけ、間があった。
「……私も」
蝋燭の火が、小さく揺れた。
私は麦わらでお茶を吸った。熱かった。
仮面の内側が、少し暑かった。お茶のせいだ。たぶん、お茶のせい。
八日目の朝、殿下が執務室の真ん中で宣言した。
「決めたぞ。収穫祭で、仮面の君に求婚する」
執務室の誰ひとり、顔色を変えなかった。ルーク様は無言で書類を一枚めくった。お茶を運んできた侍女は、盆を持ったまま天井を見た。
「ルーク。練習に付き合え。お前が仮面の君の役だ」
「……私がですか」
「立っているだけでいい。俺がひざまずいて、こう、手を取る」
殿下はルーク様の前に片膝をつき、その手を取った。ルーク様は、遠くを見る目をしていた。
「仮面の君。どうか、俺の妃に」
「殿下、近いです」
「黙っていろ。雰囲気が壊れる」
隣の机で、私は席次表に目を落とした。肩が震えるのを止めるのに、たいへん苦労した。
昼過ぎ、廊下でジャンヌに呼び止められた。
「セシル様。侍女の間で、賭けが立っておりますの」
「賭け、ですの」
「殿下がいつお気づきになるか、です。いちばん人気は『求婚の最中』。次が『収穫祭の翌朝』。大穴は『ご結婚の後』」
「ジャンヌ。あなたは、どれに賭けましたの」
「『一生お気づきにならない』に、銀貨一枚」
夕方には、リリアン様が執務室に飛びこんできた。
「殿下! 求婚なさるって本当ですか! やっとセシル様とやり直すんですね!」
「セシル? なぜ今、セシルの名が出てくる」
「え?」
リリアン様が、私を見た。私は三巡目の蝶の仮面の下で、ほんの少しだけ首を横に振った。
「……あっ。なんでもないです! 応援してます、殿下!」
「すまない、リリアン。真実の愛は、もっと深いところにあったのだ」
「はい! 深いところ、がんばってください! わたし、真実の愛はまた探しますから!」
「そ、そうか。すまないな」
「いいえ! 殿下のお話、いつも長くて途中で眠くなっちゃってたので、ちょうどよかったです!」
リリアン様は元気よく手を振って帰っていった。たぶん、本当に元気なのだと思う。
殿下はルーク様の机に身を乗り出した。
「ルーク。そういえば、仮面の君の名は何という」
ルーク様は、たっぷり三つ数えるあいだ黙っていた。
「……顔をお見せできない事情のある方です」
「そうか。奥ゆかしいな」
収穫祭は、明後日だった。
ジャンヌの銀貨は、わりと手堅いかもしれない。
収穫祭の大広間は、葡萄と焼いた林檎の匂いでいっぱいだった。
三百人の客は、私の席次表どおりに座っていた。マルセル伯とデュボワ伯は、広間の端と端だ。今のところ、葡萄畑の話は聞こえてこない。
私はジャンヌたちが縫ってくれた、今日のための仮面をつけていた。白い絹に、銀糸で麦の穂の刺繍。今までで、いちばんきれいな仮面だった。
「よくお似合いですわ、セシル様」
給仕に紛れたジャンヌが、すれ違いざまにささやいた。
「ジャンヌ。今夜で、あなたの銀貨の行方が決まりますわね」
「ええ。ですから若い子たちには、殿下から目を離すなと申しつけてあります」
「わたくしからではなくて?」
「セシル様は、どこにいらしても見つけられますもの」
楽団の曲が終わったところで、殿下が広間の真ん中に進み出た。
「皆、聞いてくれ」
殿下はまっすぐ私の前まで歩いてきて、片膝をついた。
広間が静まり返った。
「仮面の君。この十日、君が隣の机にいてくれて、俺は初めて執務が楽しかった。どうか、俺の妃になってほしい」
壇上で、陛下がわくわくと身を乗り出していらっしゃるのが見えた。
「そして、その仮面を外して、俺に顔を見せてくれないか」
なるほど。そう来たか。
引き継ぎの書類は、毎晩少しずつ書き足してあった。いつ「顔を見せろ」と言われてもいいように。真面目すぎるのは、私の悪い癖だ。
「かしこまりました」
私は仮面の紐をほどいて、外した。
広間の誰も、驚かなかった。驚いたのは、殿下ひとりだった。
「……セシル?」
「はい、殿下。顔をお見せしてしまいました」
私は膝をついたままの殿下を見下ろして、できるだけ丁寧に申し上げた。
「十日前、殿下は『二度と俺の前に顔を見せるな』と仰いました。たった今、殿下は『顔を見せてくれ』と仰いました。後のご命令に従いましたので、前のご命令には背いたことになります」
「いや、それは」
「ご命令に背きましたので、本日をもって補佐のお役目を辞させていただきます。引き継ぎの書類は、執務室の机の上に三十二枚ございます」
「待て。待ってくれ。では、あの葡萄酒の進言も」
「去年の秋から数えて、五回目でございました」
「詩を読んだときも」
「三年前にいただいたものと、同じ詩でしたわね」
「いつから、その、君は」
壇上から、豪快な笑い声が降ってきた。陛下だった。
「エドモン。十日、毎日ここにいたぞ。わしは毎朝、執務室まで見物に通っておった」
殿下の顔から、すうっと血の気が引いていく。
その横で、リリアン様が首をかしげた。
「殿下、気づいてなかったんですか?」
「リ、リリアン。君は、知っていたのか」
「はい! 最初に見たときから! お面、かわいかったので!」
広間の三百人が、一斉にうなずいた。
端と端の席で、マルセル伯とデュボワ伯までが、まったく同じ角度でうなずいていた。三年ぶりに、あの二人の意見が合った。
「求婚のお返事ですけれど」
私は、外したばかりの麦の穂の仮面を、殿下の手にそっと乗せた。
「殿下が恋をなさったのは、この仮面のほうですもの。こちらを、お納めくださいませ」
「ま、待て、セシル。辞められては困る。収穫祭の後始末は、誰が」
「引き継ぎの書類の、十四枚目にございます」
「何と書いてある」
「殿下ご自身で、と」
殿下の口が、開いたまま閉じなかった。
三百人が一度にうなずくと、ちょっと風が起きる。初めて知った。
中庭に出ると、夜風が冷たくて気持ちよかった。広間からは、何事もなかったように楽団の音が流れてくる。さすが王宮の楽団、立ち直りが早い。
足音が追いかけてきた。振り向くと、ルーク様が息を切らしていた。手には何も持っていない。書類がないと、どこを見ていいか分からないような顔をしていた。
「辞めてしまいましたね」
「ええ。引き継ぎは、三十二枚ございます」
「知っています。昨夜、全部読みました」
ルーク様は眼鏡を外して、また掛け直した。中庭に来てから、もう三回目だった。
「セシル様。ひとつ、白状させてください」
「なんでしょう」
「あの詩を書いたのは、私です」
夜風が、ぴたりと止まった気がした。
「三年前の冬、殿下に頼まれたんです。婚約者に贈る詩を代わりに書け、と。何を書けばいいか分からなくて……隣の机から見えたままを、書きました」
まっすぐな背は、朝いちばんの羽ペン。
インクの染みた中指は、誰かの間違いを黙って直した印。
私の顔をろくに見ない方が、どうして知っていたのか。
三年間、あの手紙だけを頼りにしてきた。殿下も、一度くらいは私を見てくださったのだと。
違った。見ていたのは、隣の机の人だった。
だからあの夕方、殿下より先に「しるし」と読めたのだ。書いた本人なのだから。
手のひらが急に熱くなって、私は自分の中指を握りこんだ。インクの染みごと。
「……ずるいですわ」
「すみません」
「三年も、黙っていらして」
「言ったら、殿下の詩ではなくなりますから。あれは、あなたが婚約者として受け取るべきものでした」
「それで、殿下があれを読み上げるたびに、眉間に皺を」
「死ぬかと思いました。自業自得です」
「ええ。自業自得ですわね」
ルーク様は、私の前に立った。今度は、何で顔を隠すこともなく。
「仮面があってもなくても、ずっと見ていました」
「……いつから、ですの」
「あなたが隣の机に来た、最初の週からです。羽ペンを一日に三本も折る人を、初めて見ました」
「力が入りすぎるのですわ。今も、少し入っています」
「今度は、私の名前で言わせてください。結婚してください」
胸の奥が、うるさかった。仮面がないので、たぶん全部顔に出ている。
「ひとつ、条件がございます」
「はい」
「次の詩は、ご自分の名前で書いてくださいませ」
「……善処します」
「それと、もうひとつ」
「まだありますか」
「わたくし、明日から出勤するところがございませんの。朝になると、たぶん落ち着きませんわ」
「バール家の書斎なら、机が二つ並んでいます」
「隣同士ですの」
「隣同士です。羽ペンは、毎朝削っておきます」
ルーク様は、空っぽの両手で顔を覆った。指の隙間から見える頬まで、すっかり赤かった。
覆う書類がないと、この人はずいぶん分かりやすい。
その後のことを、少しだけ。
殿下は今、収穫祭の後始末の書類を、ご自分で書いていらっしゃる。隣ではリリアン様が「殿下、そこの綴り、違います」と、楽しそうに指さしているらしい。真実の愛は、案外その辺に落ちていたようだ。
日替わりの仮面は、全部ジャンヌに返した。
ところがジャンヌは今、婚礼用の仮面を縫っている。白い絹に、銀糸で羽ペンの刺繍。
いや、婚礼では顔を隠さなくていいのよ、ジャンヌ。




