時代に合わせて変わることが出来た名将 横浜高の渡辺元智元監督亡くなる
◇僕が横浜高校に魅了された日
皆さんは横浜高校のエースと言うとメジャーにも行った松坂大輔さんを思い浮かべると思うのですが、
下半身主導でまるでマウンドに沈み込むような美しい投球フォーム――
当時は野球についてあまり分かっていませんでしたが「良い意味で他の選手と違う」ことは一目見た瞬間に分かりました。
渡辺監督の横浜は洗練された守備、素晴らしいエースが常に存在しており「常勝軍団」と言っても過言ではありませんでした。
僕自身はスポーツが出来ない方だったのでとても横浜高校に入学して野球をやれるレベルで無いことは明らかでしたが、それでもこんな素晴らしい選手を育てる横浜をずっと見ていたい――そう思うようになりました。
それだけに今回の訃報は僕の野球の原点を失ったようなそんな喪失感がありますね……。
◇「変わることができた」のが渡辺監督の最大の特徴
渡辺監督は1944年と戦中生まれ。当時は「練習中水も飲めない」ので隠れて飲んでいたり、ミスをした選手には「鉄拳制裁」が当たり前の時代でした。
そんな中、渡辺監督が転機を迎えたのが73年のセンバツ甲子園で優勝した際、
あと1回で優勝という局面でレフトの富田が落球で同点にされる場面で
※以下https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/a0c5c28d8fa406bd01ce66aef0e135769202e92d から引用
『やっと10回に1点を勝ち越し、よしっ! と思ったんです。ところがその裏、レフトの富田が楠原君の打球をグラブに当てて落とし(記録はヒット)、同点。勝ったと思ったらエラーですから、ベンチに戻ってきたらぶん殴ってやろうと思っていたんです。時代ですね(笑)。ところがチェンジになり、手ぐすねを引いていたら、富田がなかなか近くに来ない。私が腹立ちまぎれに投げ散らかしたものを、整理でもしていたんでしょうか。ただ、そこで間が空いたことで、私自身ちょっと冷静になったんですね。"次に打てばいいじゃないか"と、自分でも不思議な言葉を富田にかけていたんです。
そうしたら……富田が涙を流すんです。ふだん合宿では、猫を洗濯機に入れたり、つかまえたヘビを切り刻んだり、全員とんでもなくやんちゃなヤツらなんです。たまらずに鉄拳制裁を加えても、2〜3時間正座させても、しらっとしている。そういうヤツが涙でしょう。鉄拳を覚悟していたのに、優しい言葉をかけられるなんて、思いもよらなかったんでしょうね。その富田が、11回のツーアウトから2ランホームラン……。
ふだん、ホームランを打つような選手じゃないんです。この大会ではそこそこヒットは打っていましたが、ポテンヒットがうまい程度で、それがポール際の最短距離とはいえホームランですから」
ここから渡辺は、少しずつ変わっていく。それまではスパルタ、スパルタの問答無用の指導だったが、一生懸命やっていて結果が出ないのを、試合中にあれこれいっても効果が出るわけじゃない。それよりも、選手をいかに気持ちよく打席に立たせるかが大切じゃないか。だから内心、「打てそうもない」と思っても「しっかり打ってこい」と送り出す。当時、29歳。この初出場優勝が、つごう50年近くなる渡辺の指導者人生を支えた。』
とあるように選手に寄り添う指導に変わっていきます。
選抜を制したものの、夏は東海大相模に阻まれ夏の甲子園で勝つにはどうしたら良いのか? 選手に寄り添うにはどうしたら良いのか? を考えた際に、より選手の日常――授業の様子などを知るために監督専任から1976年から夜間部に通って社会科教諭にもなりました。
そして、1980年には愛甲投手(プロでは野手として活躍)を擁して夏の甲子園初制覇を成し遂げます。
しかし、80年代中盤から90年まで甲子園はおろか県大会でも勝てない日々が続きます。
そんな中で横浜高校の同級生の小倉清一郎氏と再会し、監督待遇の部長として迎い入れることで大きく好転します。
渡辺監督と小倉氏は戦術面で毎年のように対立したこともあったようですが、それでも戦術面は小倉氏、精神面は渡辺監督が担当し1998年には松坂大輔氏を擁して春夏連覇、年間公式戦無敗の偉業を成し遂げます。
このように変化を恐れず様々な試行錯誤を続けてきたからこそ51勝の勝利数と多くのプロ野球選手を輩出することが出来たのだと思います。
そして晩年の渡辺監督は野球だけに限らず「人生の勝利者」を育てるために、「目標がその日その日を支配する」というフレーズがありました。
これは、野球の単純な勝利だけに得るものがあるわけでは無く、「敗北から学ぶ」ことの重要性も説かれていたのです。
◇横浜高校現監督村田さんに言いたいこと
渡辺監督はこれまで見た通り「変わることが出来た」ことが最も素晴らしい点だったと思います。
そんな中で令和で最大の野球の転換と言えば「継投」と言えるでしょう。
特に夏は酷暑が続き、スタミナを奪われます。
2026年の横浜高エースの織田投手は最速157キロのストレートを投げるドラフトでも重複の可能性が高く、メジャーをも注目する大投手でした。
皆さんは「松坂大輔以来」僕から言えば「涌井投手以来」のスーパーエースと言えます。
体調が万全であればまず高校生で打てるとは思えません。
しかし甲子園の準決勝では織田投手は3回途中で4失点で降板しそのまま横浜高は敗退しました。
これは、組み合わせの日程が「一番悪い位置」にあり、決勝まで行った場合14日で7試合と超過密な試合ペースでした。
そして、ベンチに最速145キロ以上投げる投手が織田投手以外にも5人もいたにもかかわらず、準々決勝終了時点で最も球数を投じた投手が織田投手だったという偏重起用がたたったものだと思います。
横浜高校には松坂大輔投手が平成10年の夏の甲子園準々決勝のPL学園戦で延長17回250球を投げてさらに2日後に決勝でノーヒットノーランを達成しました。
「松坂越え」を狙っていた織田投手は「3試合連続完封」ぐらいを狙っていたと思われます。
しかし、今は時代が変わりました。1人の投手が投げ続ければ「美談」と言われることは無くなり、むしろ「選手を破壊する」と批判が殺到するようになりました。
これは夏の暑さが苛烈になったこともあると思いますが、以前よりも変化球が多様化し、より肘や方に負担がかかる投球になっていることもあると思います。
渡辺監督の時代は1人の投手が完封し勝利し続けるというのが定跡でしたがそれが今では「傍流」となるほどになりました。
村田監督も渡辺監督の継承者であると思うのなら、過去の野球に囚われるのではなく、「時代に合わせて変わる」ことを期待したいと思います。
そうでなければ渡辺監督の遺産を食いつぶすだけになってしまうでしょう……。
今回甲子園4強で敗れたことから学ぶことこそ村田監督に問われるもの、そして将来の横浜高校の常勝軍団に繋がること、そして渡辺監督への追悼なのだと僕は思いました。
改めて渡辺元智さんの偉大な功績を称えるとともにお悔やみを申し上げます。




