1話
四月の体育館は、埃と汗の匂いがする。
柏木蓮はその匂いが嫌いではなかった。正確に言えば、嫌いになれなかった。どれだけ憎もうとしても、この匂いを吸い込むたびに体の奥から何かがせり上がってくる。それが何なのかは、もう考えないようにしていた。
放課後の体育館二階、ギャラリーと呼ばれる観客席スペースの端に、蓮は一人で座っていた。部活の時間はとっくに始まっている。眼下では後輩たちがロープを跳び、シャドーボクシングをし、ミットを叩いていた。革が空気を切る乾いた音が、規則的に体育館に響く。
蓮はそれを見ていなかった。
視線は窓の外に向けていた。校舎の向こうに広がる住宅地、その屋根の連なりの上に、夕焼けがゆっくりと広がりはじめている。茜色が薄紫に変わっていく境界線を、蓮はぼんやりと目で追っていた。
胸のポケットに、紙が入っている。
三つ折りにされたA4の紙。「退部届」と印刷された書式に、担任のハンコをもらった。あとは顧問の松田先生に渡すだけだった。それだけのことが、三週間できていない。
三週間前。
眼科の診察室で、蓮は白衣の医師の口から「網膜剥離」という言葉を聞いた。右目の違和感を訴えて受診したその日に、そのまま緊急入院になった。手術は成功した。視力は戻った。問題はその後に医師が言った言葉だった。
「もし再度、強い衝撃を受けた場合——最悪、失明のリスクがあります」
失明。
その二文字は不思議なほど静かに蓮の中に落ちてきた。動揺するより先に、何かがすとんと腑に落ちる感覚があった。ああ、終わりだ、と。泣くより先に、そう思った。
ボクシングを始めたのは中学一年生の夏だった。父親に連れられて見に行った試合で、リングの上の選手の動きに目を奪われた。あの時のことは今でも鮮明に覚えている。二人の人間が、狭い正方形の空間の中で、互いの全てをぶつけ合っていた。勝負事というより、会話みたいだと思った。拳で交わす、密度の濃い会話。
その日の夜、父に「やってみたい」と言った。父は少し驚いた顔をしてから、「そうか」と笑った。
それから五年間、蓮はボクシング一本で生きてきた。中学の新人戦で優勝して、高校でも一年から試合に出て、二年の春には地区大会で頂点に立った。周囲からは「全国も狙える」と言われていた。本人もそのつもりだった。
なのに。
なのに、こんな形で終わるとは思っていなかった。
蓮は目を閉じた。瞼の裏に、地区大会決勝の場面が浮かぶ。最終ラウンド、相手の右ストレートをスリップして懐に入ったあの瞬間。体重を乗せた左フックが相手の側頭部をとらえた時の、手のひらに伝わってくる感触。レフェリーが試合を止めて、腕を上げられた時の——
やめろ。
蓮は目を開けた。
思い出すから辛い。だから考えない。それだけのことだ。
眼下の練習風景を、今度は意識して見ないようにしながら、蓮は立ち上がった。退部届を顧問に渡す。それだけでいい。グラウンドに向かえばいい。それだけのことだ。
ところが、足が動かなかった。
自分でも呆れるくらい、足が動かなかった。
蓮は舌打ちをして、もう一度ギャラリーの手すりに腕を乗せた。
下を見るつもりはなかった。それでも視線は自然に吸い寄せられて、気がつけばサンドバッグエリアを見ていた。
一人の男が、サンドバッグを叩いていた。
見覚えのない顔だった。一年生だろう。背は高くない。がっしりしているわけでもない。ごく普通の体格に見えた。ただ——
蓮は目を細めた。
その打ち方が、おかしかった。
フォームが滅茶苦茶だった。踏み込みのタイミングがずれている。肘が上がりすぎていて、パンチの軌道が弧を描いている。教科書通りに言えば、直すべき点が十個は見つかる。
なのに、音が違った。
他の部員がサンドバッグを叩く音と、明らかに質が違った。重い。革の奥まで届くような、低くて重い打撃音が体育館に響いている。フォームは最悪なのに、何故かバッグが大きく揺れる。
蓮は無意識にその男の動きを分析し始めていた。
重心が低い。意識してそうしているわけではないだろうが、重心位置が本能的に正しい場所にある。踏み込みのタイミングはずれているが、下半身の力の伝達経路は理に適っている。肘は上がっているが、それによってむしろ肩の筋肉群を最大限に使えている。
整理すれば、こいつのフォームの欠点は全部「知識がないせい」だ。
身体の使い方自体は、おそらく——
「あっ」
突然、その男がサンドバッグを叩くのをやめた。顔を上げて、ぐるりと体育館を見渡した。何かを探しているような目だった。
そして。
その視線が、ギャラリーの蓮のところで止まった。
男は一瞬きょとんとした顔をして、それから大きく手を振った。
蓮は思わず顔をそらした。
なんだ今のは。知らない一年生に手を振られた。それだけのことだ。気にする必要はない。
蓮は手すりから腕を離して、踵を返した。グラウンドに行く。顧問に退部届を渡す。それだけでいい。
階段を下りながら、蓮の脳裏にさっきの打撃音が反響していた。
あの重さは、本物だ。
考えるな。関係ない。
*
グラウンドに出ると、日が傾いていた。
野球部が外野でノックをしている。サッカー部がコーンを並べてドリブル練習をしている。陸上部が黙々とトラックを走っている。それぞれが自分の世界の中で動いていた。
蓮はグラウンドの端を歩きながら、松田先生の姿を探した。顧問の松田は体育教師で、放課後は体育館とグラウンドを行き来している。体育館の中にはいなかった。
と、蓮の後ろから声が聞こえた。
「あの、先輩ですか」
振り返ると、さっきサンドバッグを叩いていた男が立っていた。
体育館着のまま、タオルを首にかけている。近くで見ると、顔立ちはどこにでもいそうな普通の男だった。目が少し大きくて、全体的に人懐こい印象を受ける。
「俺に話しかけてる?」
「はい。さっきギャラリーにいた人ですよね。ボクシング部の先輩じゃないかなと思って」
「……元、だ」
自分でそう言ってから、蓮は少し驚いた。元、と言ったのは初めてだった。
男は首を傾げた。
「元、ですか?」
「退部するから。もう関係ない」
「えっ」
男の顔が、露骨に曇った。驚いた、というより、本気でショックを受けたような顔だった。知り合いでもない先輩の退部にそんな顔をするのか、と蓮は思った。
「朝比奈大地です。一年生です。さっき体験入部してました」
「そうか」
「入ろうと思ってたんです、ボクシング部。あの、先輩が辞めるって言うのは、個人的な事情がおありなんだと思うんですけど、でも」
「でも、何」
大地は少し逡巡してから、まっすぐ蓮を見た。
「さっき、ギャラリーから俺のこと見てましたよね。どこか変でしたか」
蓮は答えなかった。
「なんか、視線が違う感じがして。普通に見てる感じじゃなかった。だから、ちょっと聞きたいなって」
「……何も言ってない」
「でも、何か思ったでしょう」
図々しい後輩だ、と蓮は思った。体験入部の一年生が、退部しようとしている先輩を呼び止めて、感想を求めている。普通そんなことはしない。
だが不思議と腹は立たなかった。この男の目に悪意がないのが、見てわかるからだと思った。ただ純粋に、知りたいのだ。
「フォームが悪い」
気がついたら、蓮は口を開いていた。
「肘が上がってる。踏み込みのタイミングもずれてる。教科書的には直すべき点が多い」
「そうですか」
「だが」
蓮は続けるつもりはなかった。それでも言葉が出てきた。
「重心が良い。力の伝達も悪くない。フォームの悪さは知識がないせいだ。身体の使い方自体は、筋がある」
大地の顔が、ぱっと明るくなった。
「じゃあ直せますか」
「直る、の間違いじゃないのか。自分で直す気はないのか」
「俺、自分じゃよくわからないんで。誰かに言ってもらった方が早いかなって」
蓮はため息をついた。
「俺は退部する」
「でも今、教えてくれましたよね」
「……それとこれとは話が別だ」
「そうですか」
大地は納得したのかしていないのかよくわからない顔で頷いた。それから、思い出したように言った。
「俺、勝ち方がわからないんです」
「何?」
「試合で勝つ方法です。野球やってた時もそうだったんですけど、なんか試合になると何をすればいいかわからなくなる。動けるし、打てるし、なんか負けてる気もしないんですけど、終わってみると負けてる。ボクシングも多分そうなると思うんです」
蓮は男を見た。
嘘をついている様子はなかった。本当に、勝てない理由がわかっていないのだ。
「判定を知っているか」
「はんてい?」
「ボクシングはKOで終わらなければ判定になる。審判が採点して、ポイントが多い方が勝つ。有効打数、クリーンヒット、積極性、防御——そういう要素で採点される。お前がいくら元気でも、ポイントを取られていたら負ける」
「へえ」
大地は目を丸くした。本当に知らなかったらしい。
「じゃあ、そのポイントの取り方を覚えればいいんですね」
「……まあ、極端に言えばそうだ」
「教えてもらえますか」
「だから俺は退部す——」
「今日だけでいいです」
大地は屈託なく笑った。
「今日だけ教えてもらえたら、あとは自分でやります。先輩が辞めても、教わったことは消えないんで」
蓮は返答に詰まった。
今日だけ、という言葉が妙に刺さった。こちらの事情を汲んでいるようで、その実まったく汲んでいない。こいつにとって蓮の退部は「残念だけどそういうこともある」くらいの話で、それよりも「今日教えてもらえるかどうか」の方が重要なのだ。
悪意がない。計算もない。ただ純粋に、知りたい。
「……松田先生を知ってるか」
「体育の先生ですよね。ボクシング部の顧問の」
「今日、どこにいるか知らないか。退部届を渡したい」
大地は少し考えてから、「あっ」と声を上げた。
「今日、出張じゃないですか。体験入部の時に、副顧問の鈴木先生が言ってた気がします。松田先生は今日いないって」
蓮は空を仰いだ。
そうか。今日はいないのか。
「じゃあ明日渡せばいい」
「はい」
「今日は、もう帰る」
「あの」
「何だ」
「明日も来ますか」
蓮は大地を見た。大地は真剣な顔をしていた。笑ってもいないし、からかっている様子もない。本当に聞いている。
「退部届を渡しに来る」
「じゃあその前に、少しだけ話聞かせてもらえますか。判定の取り方」
「……」
「今日は松田先生いないし、話すだけなら体に障らないじゃないですか」
体に障らない、という言葉を、この男がどういう意味で使ったのかは分からない。知っていて言ったのか、ただの偶然か。
蓮には確認できなかった。
「一回だけだ」
気がついたら、そう言っていた。
「明日、話だけ聞かせてやる。一回だけだ。それで俺は退部する」
大地の顔がぱっと輝いた。本当に子供みたいな笑い方をする男だった。
「ありがとうございます!」
「礼を言うな。一回だけだと言った」
「はい!一回だけです!」
全然わかってなさそうだな、と蓮は思った。
踵を返して歩き出しながら、蓮は胸のポケットに手を当てた。三つ折りの退部届が、そこにある。明日、松田先生に渡す。それだけのことだ。
話を聞かせるのは、その前でも後でも構わない。どうせ一回きりだ。
体育館の方から、サンドバッグを打つ音が聞こえてきた。
重い音だった。
蓮は振り返らなかった。
*
自宅に帰ると、夕飯の匂いがした。
玄関で靴を脱ぎながら、蓮は右目を手で覆った。視力は戻っている。手術の経過は良好で、眼科医にも「日常生活に支障はない」と言われた。
支障はない。
ボクシング以外では。
「蓮、帰ったの」
台所から母の声がした。
「うん」
「今日はどうだった」
「別に」
いつもの返事をしながら、蓮は自分の部屋に上がった。
机に鞄を置いて、制服のまま椅子に座る。胸のポケットから退部届を取り出して、机の上に置いた。
三週間、ずっとポケットに入れたままだった紙が、今初めて机の上に置かれた。
蓮はそれをしばらく見ていた。
明日、渡す。
そうすれば終わる。全部終わる。あの匂いを嗅いで、あの音を聞いて、自分には届かない場所にあるものを見続ける日々が。
終わる。
スマートフォンが震えた。
見ると、中学時代の先輩からのメッセージだった。大学でもボクシングを続けているその先輩が、自分の練習動画を送ってきていた。「見てみろ、最近フォーム変えた」という一文が添えてある。
蓮は動画を開いた。
画面の中で先輩がシャドーをしている。確かに以前よりフォームが変わっていた。左肩の位置が少し下がって、それによってジャブの射程が伸びている。悪くない変化だ。ただ、右の打ち終わりのガードが甘くなっている。そこを突かれたら——
蓮は動画を閉じた。
今の自分がそれを分析してどうする。
参考になりました、と短く返信して、スマートフォンを伏せた。
机の上の退部届を、また見た。
明日、渡す。
それでいい。それが正しい。失明のリスクを犯してまで続けるほど、自分の人生はボクシング一色ではない——そういうことにする。賢い判断だ。誰も責めない。むしろ褒められるくらいの、賢い撤退だ。
なのに。
さっきの打撃音が、頭の中で鳴っていた。
フォームは最悪だが、重心が良い。力の伝達も悪くない。あの身体の使い方を整えれば——
蓮は頭を振った。
関係ない。明日、退部届を渡して、一回だけ話をして、それで終わりだ。
窓の外は完全に暗くなっていた。
蓮は退部届を手に取り、引き出しを開けた。
そこにしまった。
なんとなく、今夜はポケットに戻す気になれなかった。それだけのことだ。明日の朝、また取り出せばいい。
*
翌朝、蓮は退部届を引き出しから取り出さなかった。
なんとなく、という理由だけだった。
松田先生は今日は学校にいるはずだった。放課後に行けば渡せる。朝から持ち歩く必要はない。そういうことにした。
一時間目の授業が始まっても、蓮は教室の窓から空を見ていた。
晴れていた。
ボクシング部の練習がある日の空は、なぜかいつも鮮明に見える気がした。自分でも馬鹿げていると思うが、そう見える。
昼休み、蓮は購買でパンを買って、人気のない階段の踊り場で食べた。
友人がいないわけではない。ただ今は、誰かと話す気になれなかった。網膜剥離のことは学校では話していない。入院していた一週間を「風邪」で通した。顧問の松田先生と、担任と、それだけが知っている。
退部することになったら話すつもりでいた。退部することになったら、理由を説明しなければならない。
パンを食べながら、蓮は昨日の大地のことを思い出した。
今日だけでいいです。
あの言葉の軽さが、なぜか妙に頭に残っている。重い覚悟もなく、深い意図もなく、ただ「今日だけ」と言えてしまう、あの屈託のなさ。
蓮にはあんなふうに言えない。一回と言ったら一回だと、自分を縛ってしまう。そうしないと歯止めが利かない気がするから。
歯止め、か。
蓮は鼻で笑った。
何の歯止めだ。退部する人間に、歯止めもくそもない。
放課後になった。
蓮は鞄を持って教室を出た。職員室に向かう廊下を歩きながら、今日こそ渡す、と自分に言い聞かせた。引き出しに置いてきた退部届は、昼休みに一度取りに行って鞄に入れてある。
職員室の前まで来た。
ドアを開けようとして、止まった。
廊下の向こうから、体育館の方向に向かっていく人影が見えた。
朝比奈大地だった。体育館着に着替えて、練習に向かうところだろう。その背中を、蓮はなんとなく目で追った。
大地は体育館の扉を開けた。
その瞬間、中からサンドバッグの音が漏れてきた。
革が鳴る、重い音。
蓮は職員室のドアから手を離した。
気がついたら、廊下を歩いていた。体育館の方向に向かって。
*
体育館の入り口から中を覗くと、大地がすでにサンドバッグの前に立っていた。他の部員は準備運動をしている。
蓮は入り口の壁に背中を預けた。
中に入るつもりはなかった。少し見るだけだ。昨日と同じように、少し見て、それから職員室に行けばいい。
大地が打ち始めた。
昨日と同じ、あの重い音がする。
蓮は目を細めた。
やはり肘が高い。だがそれを指摘するだけではダメだ。肘を下げろと言えばパンチが弱くなる。あの肩の使い方を活かしたままで、肘だけを——
待て。
蓮は自分の思考を遮った。
なぜ考えている。
俺は退部する。今日、松田先生に退部届を渡す。そのために職員室に向かっていたはずだ。なのに足がここに向いて、この男のフォームの修正方法を考えている。
頭がおかしい。
「あ、先輩」
大地がこちらに気づいて、手を止めた。昨日と同じように、屈託なく笑う。
「来てくれたんですね」
「偶然だ。通りかかっただけだ」
「そうですか」大地は特に疑う様子もなく頷いた。「松田先生なら今日は四時過ぎまで職員会議らしいですよ」
「……なぜそれを知っている」
「さっき廊下で会って聞きました。なんとなく」
なんとなく、聞いた。
この男のなんとなく、は、なぜかいつも蓮に関係のある情報を持ってくる。
「四時過ぎまでか」
「はい。だからその前に、話聞いてもらえませんか。昨日の約束の」
蓮はため息をついた。
「……わかった。準備運動が終わったら来い」
「はい!」
大地が嬉しそうに打ち込みに戻った。
蓮は体育館の壁際のベンチに座った。
鞄の中に退部届が入っている。四時過ぎに松田先生が戻ってきたら、渡しに行く。それまでの時間を、この男の相手で潰す。それだけのことだ。
サンドバッグを打つ音が響いていた。
重く、規則的に。
蓮はそれを聞きながら、自分の中でじわじわと広がってくる何かを、まだうまく名前にできないでいた。




