浴室に響く若い女の泣き声
そのホテルは、通行量の多いインターチェンジ近くに開けた大きなラブホテル街の中にあって、今は名前も変わってしまっているのだが、その当時はかなり人気のあったホテルだった。
長い塀に囲まれた奥にある門をくぐり駐車場に車を停めると、共用のエントランスまで歩き、そこに設置された各部屋の案内板のボタンを選んで入室する。
他のカップルがいるのが見えると少し緊張した覚えがある。私も当時は、まだ若かったから。
その日入った部屋は三階にある角部屋で、確か部屋番号は305か315だったと思う。このホテルは以前にも何回か利用したことがあったのだが、その部屋に入るのはその日が初めてだった。
部屋の内装は青系の色調で統一され、落ち着いた雰囲気だった。窓の無い壁一面には鏡がはめ込まれ、鏡の中には照明のライトが控えめに瞬いている。部屋の中央にあるベッドの脇に、黒い筐体のコンチネンタルⅡのスロットマシンが置いてあり、大当たりを引くと好きな景品と交換できるコインが一枚貰えた。
部屋の右手の奥には扉があり、その奥にトイレと浴室があった。
私達は二人揃って休みだったその日、県外に遊びに行った帰りにそのホテルに寄ったのだった。
季節はもう冬に近く、部屋には暖房が入っていたのだが少し暑いくらいで、私はちょっと厚めのジャケットを脱ぎながら、ガラステーブルの上に置かれた軽食のメニューを取ると彼女に渡した。
「お腹減らない? 夕飯の前に軽く何か食べようか」
「そうだね…。そうしようか」
その日は、中央アルプスの白い峰々を望む湖畔のレストランで早めの昼食を食べたきりで、二人とも少し小腹が空いていた。
だから午後も少し遅い今の時間、まだ夕闇には暫く間があった。駐車場から歩いて来る時に、初冬の暖かい日差しが山の端に傾きながらも目に眩しかったのを覚えている。
「すみません、ピザのレギュラーサイズを一枚とポテトフライ、それと…」
フロントにそう伝え電話を切ると、備え付けのカラオケのリモコンを手に取る。
「料理が来るまでカラオケしようか?」リモコンに曲を入力すると、マイクを彼女に手渡した。
「ごちそうさま」
「美味しかったね」…
「少し休んでから、お風呂に入ろう」
私は彼女にそう言って浴室に向かい、入り口の扉を押し開けた。
( ⋯ ガチャッ。 )
金属的な音を立て白い扉が内側に向かって開くと、その先に脱衣所と洗面台が見えた。
正面の洗面台に設置された大きな鏡の中に、ドアノブに右手を掛けたまま私を見詰める自分がいた。
「あっ! 」
電気を点けていない脱衣所は薄暗く、その中で目を見開きこっちを見ている無防備な自分の姿がいきなり目に入って、ちょっと驚いた顔の自分が映っている。
入り口の壁のスイッチを点けると、黄色く暖かな照明に淡い色の壁が映えて、鏡の中の私の顔にも生気が見えている。
洗面所は綺麗に清掃され、清潔な匂いがしていた。
( ギ―っ、… )
洗面所の横にある透明な扉を押し開くと、そこは青を基調としたタイル張りの爽やかな雰囲気の浴室だった。
四角い室内の奥の壁際にこぢんまりとした四角い浴槽があって、その横は一人が座れる広さの洗い場になっている。その上の壁の高い場所には横長の小さなサッシの窓が取り付けられていて、浴室内に外からの日の光が差し込んでいる。
窓の下に立ってみると、背が高い方の私でも顔がやっと覗くくらいの高さだった。窓枠から顔を乗り出すと窓の外には、ホテルの前のインターチェンジから東京方面へと続く高速道路と、原色のネオン管で形作られた色々な名前が灯った他のホテルが見渡せた。
外は夕暮れにはまだ早く、太陽は西の白い雪を被った南アルプスの峰々に傾き掛けているものの、外からは明るい光が浴室に差し込み浴室内を照らしていた。
ただその窓は小さく、電気を点けていない時の浴室は、薄暗く陰気な雰囲気を醸し出してもいた。
窓には浴室側にタイルと同じ色の戸が付けられていて、その戸を閉めると外の光が遮られ、電気を消すと浴室内は真っ暗になった。きっと、入浴時の雰囲気作りに役立つのだろう。
( ⋯ キュッ、シャァーッ… )
私は一通り浴室内を眺めやってから、浴槽の栓を閉め蛇口を開いてお湯張りをすると、白い湯気が立ち込める浴室を出て行った。
「直ぐにお湯が溜まるから…」
「ありがとう」
私はスロットの椅子に座ると、コインサンドに千円札を滑り込ませる。そして吐き出されてきたコインを三枚投入口に投入し、黒いスタートレバーの頭を弾いた。
( ガコッ、)( ブーン… )
横に並ぶ三本のリールは上下にぶれて小さく揺れると、モーターの唸る音を低く響かせ一斉に回転を始めた。
( ピッ! ピッ!、 ピッ! )
回転するリールの赤く光る数字の7の残像を狙い、右手の人差し指でリズミカルに、左から順番にストップボタンを押していく。
〈 ⋯ 7 ⋯ 7 ⋯ 7 〉
三つ目のリールに赤い7が止まった瞬間、眩いフラッシュの光の点滅とともにスロットマシンは軽快な音楽を奏で出し、ビッグボーナスゲームが始まる。
「またぁー、無駄づかいでしょ!」
彼女は上着を脱ぎながらそう言って私の横に来ると、渋い顔でスロットマシンを覗き込む。
「来る度、いつもそうだし。どうしてこういうの、どこのホテルでも置いとくかなぁ…」
「いいでしょ! 少しくらい」と、私。
( ⋯ ガコッ、ジャラジャラッ… )
スロットはコインを吐き出し続けている。
( …ピッ、ジャラ、ジャラ )
「これで、最後…。」
( ガコッ。 ピッ! ピッ!、 ピッ!。)
「はい、終了…。」
私は、スロット台の下皿に最後に吐き出された金色に光るコインを一枚手に取ると、それをテーブルの上に置かれた銀のジッポーライターの横に並べて置いた。
コインにはアルファベットのAの文字が、クラシカルな筆記体で刻印されていた。
「うーん…」
軽く伸びをすると、私は大きな欠伸を一つ天井に向かって吐いた。
「さてっ… と。」
「お風呂、入ろう⋯」
二人で浴室に向かう。
浴室の扉は、さっき私が浴槽のお湯張りに行った時に開けてから、そのまま開きっぱなしにしてあった。
( カチッ! )
脱衣所と洗面所の照明スイッチを点けると、左手の奥にある浴室との透明な仕切りが浴槽から上がる湯気で白く曇り、正面の洗面台の鏡の中には私達二人が映っている。
( ガチャッ、)
私は、浴室の扉を開け洗い場の椅子に腰掛けると、蛇口をひねりシャワーで体を流し始めた。
後から浴室に入って来た彼女は、浴槽に左手を入れお湯の温度を確かめると浴槽にゆっくりと浸かり、首まで体を沈めた。
( …シャーッ… )
「夕食はどこにしようか?」
白い湯気を立てて首筋にシャワーを浴びながら、私は聞いた。
「そうだね。… お昼は肉料理だったから、お刺身かな⁉」
彼女は、手の平にすくった湯船のお湯が指の間から流れ出るのを見詰めながら言った。
「刺身か…、いいね。いつもの『河』に行こうか?」
「そうね」
洗い場の上の窓の戸は閉められていたから、まだ明るいはずの外の日差しは浴室へは届いてはいなかった。浴室の中は立ち込める湯気でもうもうと霞み、白い湯気は照明の澄んだ青い光に照らし出され、透明な幾重もの薄青いベールのひだになって見えている。
「今日さ、あの湖の舟の上から、白鳥に餌をあげたでしょう?」
「そうだね。近くに寄って来て少し怖かったけど、可愛かったよね」
「それで、その時白鳥が、き…。」
今日あった出来事について話す、彼女の言葉が止まった。
『 ⋯ ゥ…、ぇーん…。 』
「 う? ん⁉ …」
『 ⋯ ぅ…、…ぇーん…。⋯ 』
「…白鳥が? 白鳥が何?…」
「どうしたの?」
彼女との会話の途中で何かの気配を感じ、私は体を洗う手を止めると、浴槽に浸かる彼女に問い掛けた。
「…何か聞こえない?…」
湯船から顔を出す彼女の顔は、どこか怪訝な表情をしている様に見える。
( …シャーッ… )『 ⋯ぅぇー…ぇーん 』
『 …、ぅ…、…ぇーん…。 』
( …シャーッ… )
『 ⋯ ぅ…、…ぇーん…。⋯ 』
「 ⋯う?、ん?…。」
シャワーの流れる音に混じって何か、微かな別の何かが聞こえるような気がして、シャワーを止めると私は耳をそばたてた。
( …キュッ。 )
「何?…」
浴槽の彼女が、そう私に問い直す。
『 …ぇーん…。ぅ、ぇーん。 』
その瞬間、その気配が音であることに気づき、私はその音の聞こえる方に向けて首を傾げ耳を澄ませた。そして全身の神経を耳に集中させる。
浴槽の中では彼女も不安そうな顔で、目を周囲に泳がせながら私に聞き返してくる。
「何なの? えっ…、一体何?」
その音が、若い女性のか細い泣き声で、それも嗚咽を纏ったすすり泣く泣き声であることに気づくのに、そう時間はかからなかった。
『 うっ、ぅぇぇーン。ぇえーん 』
最初その泣き声は、彼女の浸かる浴槽の奥の壁際から、本当に何の音か分からないほど小さく切れ切れに聞こえ始め、しかもそれは段々と大きくなっていくだけではなく、その声は浴室内を移動していた。
『 ゥッ えぇーン… 』『 …うっ、うっ エぇーン… えーん…。 』
『 えぇーん… 』
次第にはっきりと聞こえてきて泣き声だと理解できたそれは、若い女性が激しい嗚咽を伴いながらすすり泣く泣き声であった。
『 えーん、えーん 。うッ、うぇぇーん…』
声は、聞こえ始めた浴槽の奥の隅の方から段々と声の大きさを増しながら、浴室の中の空間を斜めに移動して天井の方にと動いていた。
『 う ェ ー ン 、 えーン…。 ウぇ ー ンっ … 』
やがて、泣き声が浴室の真ん中の天井近くに移動して来た時は、もう若い女性のか細い嗚咽というよりは、むしろそれは嗚咽混じりの女性の喚き声と言った方がいいほどになっていた。
その喚き泣く泣き声は浴室内で反響しながら木霊し、まさにこの世のモノとは思えないほどの恐怖を纏って弾け、鳴り響き渡る。
『 ウ エ ー ン ッ っ、 ブ ェ え え ー ン…、 ブ ヮ え ー ン ッ。 ぶぁあぁぁぁーん、 ぶ わああぁぁーンっ―ンっ… 』『 え ー ん、えぇーんっっ 』
『 え ぐ っ…… 』
『 わっ、エぇーん 、 わ ー ん…。 うわゎゎゎーんッ… 』
「 …‼ 。 ううッ、…。うっ⁉。」
私は洗い場の椅子に座ったまま、恐怖にゾクゾクと背中を逆立て、ただそう呻き声だけをあげ、その泣き声が喚き威圧する圧力の恐怖に晒されていた。無意識に体中にもの凄い力を込め体全体を小刻みに震えさせながら、体を洗っていたそのままの姿で固まっていた。
その時体中には、それこそもの凄い数の鳥肌がブツブツとなって、ゾワゾワと、一気に体中から皮膚の表へと噴き出していた。
浴槽のお湯の中では、彼女が、まるで作り物の人形の様に微動だにしないまま、呆けたかの様な顔で目を見開いたまま固まっている。
『 ぶ ワッ ワーン…。 ブ わ ブわー 、ワああ ーン、 ウッ ぇぇーン、 ブッ ワーン。 』
『 えぐっ、… え っ、 ぐっ… 』
『 ブッ わ ーーン… ぶワッ、ワッわーン。 ぶ わっ、 ぶわ あぁぁーんっ…、 』
一頻り、喚き声は高く、そして大きく天井近くで反響し、浴室中にその声を響き渡らせると、再び、浴槽の隅とは反対側の浴室の隅に向けて動き続けていた。しかもその声は移動しながら次第にまた、響き渡る声の大きさは少しずつ小さくなっていった。
『 ワーンッ、わ ーンっ…、エーン、 ワーん…。 』
『 …わーン…。 …んッ…。 え ーン… 』
『 …ゥ…、 えーん…… 』
『 …、ぅ…、…ぇーん…。 』『 …、 …ぇー… … … 』『 … 。』
『 』
女の嗚咽は、まるで楽曲がフェードインして始まり、最後はフェードアウトして消え入りながら終わっていくかのように、その泣き声は小さく静かに始まり、浴室内を移動しながら真上の天井近くで、もうこれ以上はあり得ないほどに大きく喚きながら反響してクライマックスを迎えると、次第に小さくなりながら動きつつ、また何事もなかったかの様に消え入って行った。
「うっ‼ …。」
泣き声が浴室の反対側の隅に消え入るように無くなった瞬間、フッと、まるで悪夢から覚めるかのように全身の硬直が解けた。
「はっ⁉」
「…?…。 ……今のは?、何だったんだ、今のは??…。… …。」
金縛りがほどけ全身の力が抜けると、止まっていた思考が戻り、そう感じた刹那、無意識に私は浴槽に沈んだままの彼女の顔を見詰めていた。
白い湯気の向こうに、やはり強張った中にも放心した顔の彼女がいた。
彼女と目が合うと、私は言った。
「…聞いた? 今の。何?…。」
「…私も…、聞いた…」
二人は、やっとそれだけの言葉を交わす。と、次の瞬間、
( ゾワッ‼ )。
とても抑えきれないほどの、とてつもない恐怖心が音も無く膨れ上がり、それは、脚のつま先から頭の先に雷の稲妻の電流に打たれたかのように駆け抜けて行った。
その時、同時に二人とも揃って浴室から飛び出ていた。そしてどうやって着替えたのかも解らないまま、料金の支払いも早々に、そのホテルを後にしたのだった。
霊感の有無は別にして、私はこれまで、人に話せば引かれてしまう様な怪しい体験をかなり経験している方だとは思う。
だがその中でも、あれほどの恐ろしい女性の泣き声を聞いた事は後にも先にも無かったし、泣き声という音だけで、あれだけの恐怖を味わったのも初めての経験だった。
今、冷静に思うと、あれはそのホテルが仕掛けた客を驚かすための余興の仕掛けだったのではないかと、考えてみることもある。
彼女も一緒に、あの恐ろしい泣き声を聞いていたのだから、私一人の気の迷いから生じた幻聴ということもあり得ない。
だが、あの喚き泣く声が、その響く音の大きさを変えながら、しかも浴室内の空間を静かに動いていたという事実が、あれがこの世のモノではない、心霊と言われる様なモノなのかとは感じている。
少なくとも、死者の霊魂が起こす心霊現象だとまでは言わなくても、この世には不思議な出来事も多いという事を。
正直、妻と付き合い始める前には、当時付き合っていた女性とかなりの修羅場を経てやっと別れた経緯があった。だからもし、あの女性の泣き声が何かと考える時、その出来事と結び付けて考えてみることもある。
だがその後、私が日々の生活の中で心霊現象と結び付く様な女性の泣き声を聞く事はなかったし、当然、別れた女性のその後の事を知る由もない。だから、泣いていた女性がその女性だったのかどうかは、今となっては分からないことでもある。
その後、そのホテルには二度と行くことはなかった。
だから、今でもその部屋の浴室にあの女性がいて、まだ泣いているのかは分からない。
(了)




