第7話 叱る声の裏側
研究所の夜は、昼よりも静かだった。
空調の低い唸りと、モニターの淡い光だけが、現実を繋ぎ止めている。
悟志はデスクに肘をつき、数式の途中で手を止めていた。
(……まただ)
数字は正しい。
論理も破綻していない。
それなのに、どこか“避けられている”。
答えに近づくと、必ず霧がかかる。
「……気のせい、か」
そう呟いた瞬間、背後で椅子が軋んだ。
「先生」
井上だった。
いつもより声が低い。
感情が削ぎ落とされたような、妙に整った声。
「まだ、残ってたのか」
「はい。データの再検証を」
井上はモニターに視線を向ける。
悟志は気づく。
――彼は、画面を“見ていない”。
数式ではない。
その奥。
“向こう側”を覗くような目。
「……何を見てる」
悟志が問うと、井上は一瞬だけ瞬きをした。
「いえ。何も」
嘘だ、と直感する。
だが、追及する前に――
世界が切り替わった。
⸻
石の床。
黄金色の光。
神殿。
「遅いです」
ノアの声。
振り向いた悟志は、すぐに違和感を覚えた。
ノアは、いつもより離れた場所に浮いている。
距離を保つように。
無意識に。
「……どうした」
「何でもありません」
即答。
だが、光がわずかに揺れている。
ロキ――悟志は、黙って歩み寄ろうとした。
その瞬間。
「来ないでください」
ノアの声が、鋭く空間を切った。
沈黙。
悟志は、足を止めた。
「……ノア?」
数秒。
長すぎる沈黙。
ノアは、はっとしたように姿勢を正す。
「……失礼しました」
声が、元に戻る。
「ロキ様。考えすぎです。現実側で、余計な疑念を持っていますね」
いつもの叱責。
いつもの口調。
だが――
悟志は見逃さなかった。
ノアが、ほんの一瞬だけ、
“背後”を気にしたことを。
「……何か来てるのか」
悟志が低く問う。
ノアは、すぐに首を振った。
「来ていません」
否定は早すぎた。
「私は、ここを守っています」
強調するように。
「ロキ様が気にする必要はありません」
悟志は、静かに言った。
「お前が気にしてるなら、話は別だ」
また、揺れ。
ノアは、言葉を探している。
「……私は」
一瞬だけ、声が小さくなる。
「臆病なだけです」
すぐに、言い切る。
「だから、叱るんです」
「迷うと、判断が遅れる」
「遅れると、壊れる」
悟志は、ノアを見つめた。
小さな光体。
責任だけを背負った存在。
「怖いなら」
悟志は言う。
「俺が前に出る」
ノアは、はっきりと否定した。
「だめです」
初めて、感情が混じる。
「それは、役割の侵害です」
「……それに」
ノアは、ほんの一瞬だけ、悟志から目を逸らした。
「ロキ様が傷つく可能性は、許容できません」
その言葉に、悟志は笑った。
「叱るくせに」
「……叱らないと、崩れるからです」
ノアは、ようやく悟志を見る。
「私は、怖がりです」
「だから、準備をします」
「最悪の事態を、何度も想定します」
「その上で――」
声が、静かになる。
「それでも守ると、決めています」
神殿が、低く唸った。
「時間です」
ノアは、距離を保ったまま言う。
「今日は、これ以上近づかないでください」
「……分かった」
悟志は、それ以上踏み込まなかった。
現実へ。
⸻
研究所の夜。
モニターの光。
悟志は、深く息を吐いた。
「……臆病、か」
それを、弱さだとは思わなかった。
むしろ――
誰よりも壊れる未来を見ている証拠だ。
ふと、視線を上げる。
井上の席は、いつの間にか空いていた。
だが、モニターには――
書いた覚えのない一行が残っている。
「境界は、恐怖から守られる」
悟志は、その文を静かに消した。
ノアの声が、まだ耳に残っている。
叱る声の奥にあった、
小さな震えと共に。




