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第6話 見えない境界

悟志は、自分の行動が少しずつ変わっていることに気づいていた。


研究所では、以前のようにすべてを記録しなくなった。

データを見る。仮説を立てる。だが、それを誰かに共有する前に、一度立ち止まる。


(これは、言っていい情報か?)


そんな判断を、自分がする日が来るとは思っていなかった。


昼休み、屋上。


悟志はフェンスにもたれ、空を見上げていた。

今日も、相変わらず完璧な空だ。


「先生」


背後から声がした。


振り返ると、高原が立っている。

少しだけ、顔色が悪い。


「どうした」


「……変な夢を見ました」


悟志の指が、わずかに動いた。


「夢?」


「はい。内容は全然覚えてないんですけど……」


高原は言葉を探すように視線を彷徨わせた。


「目が覚めたとき、

 “何か大事なことを忘れてる”って、はっきり分かる感じで」


悟志は、即座に否定しなかった。


「それで?」


「研究所に来たら、安心したんです。

 現実はちゃんと、ここにあるって」


その言葉を聞いて、悟志は確信した。


(始まってる)


「高原」


悟志は静かに言った。


「最近、よく眠れてるか?」


「え?」


「途中で目が覚めたり、異様に疲れたりしてないか」


高原は少し考えてから、首を横に振った。


「むしろ逆です。

 ぐっすり眠れてます」


悟志は、内心で息を呑んだ。


眠りが深い。

記憶が残らない。

だが、感覚だけが残る。


(やっぱり……)


「先生?」


高原が不安そうに覗き込む。


「……いや」


悟志は、無理に笑った。


「研究者なら、夢の一つや二つ、気にするな」


高原は苦笑して頷いたが、完全に納得していない顔だった。


その夜。


悟志は、いつもより強い眠気に襲われた。


布団に入る前、ノートを開く。

ページの端に、見覚えのない走り書きがあった。


――眠りは、逃避じゃない。


――移動だ。


「……移動?」


誰が、どこへ。


問いを抱いたまま、意識が沈む。


今回は、すぐに「向こう側」に引き込まれた。


足元に感触はない。

重力も曖昧だ。


「悟志」


ノアの声。


振り向くと、そこにいた。


今日は、いつもより幼く見えた。

輪郭が不安定で、光が揺れている。


「お前……大丈夫なのか」


思わず、そう聞いていた。


ノアは一瞬きょとんとした後、苦笑した。


「その言葉、そっくりそのままお返しします」


「無茶をしてるのは、どっちだ」


「……両方ですね」


少しの沈黙。


ノアは、悟志の足元を見た。


「気づき始めていますね」


「人が、眠っている間に何をしているか」


悟志は息を整えた。


「高原も、同じだ」


「ええ」


「選ばれたわけじゃない。

 ただ、感度が高い」


ノアはそう言った。


「だからこそ、危うい」


「危険なのは、外敵だけじゃない」


「真実そのものが、人を壊します」


悟志は拳を握った。


「なら、なぜ俺は知ってる」


「なぜ、俺は覚えてる」


ノアは、少し困ったように首を傾げた。


「覚えている、というより……」


「耐えている、が正しいですね」


「あなたは、壊れなかった」


その言葉が、胸に突き刺さる。


「誇ることじゃない」


悟志は低く言った。


「壊れなかっただけで、

 誰かが代わりに壊れてるなら」


ノアの光が、わずかに震えた。


「……だから」


「だから、あなたには見届けてほしい」


「守られる世界の、裏側を」


悟志は、ノアを見つめた。


「お前は、いつまでここにいられる」


ノアは、答えなかった。


代わりに、話題を変える。


「光体が、少し成長しました」


「……赤ん坊だって言ってたな」


「ええ。知識はなくても、感じ取る」


「危険も、希望も」


ノアは、ふっと微笑んだ。


「あなたに、よく似ています」


「それは、褒めてないだろ」


「いいえ。褒めています」


空間が、また揺らぎ始める。


「悟志」


ノアが、真剣な声で言った。


「もし、私がいなくなったら」


「あなたは、眠りを疑ってください」


「それが、合図です」


「待て」


悟志が手を伸ばす。


「どういう意味だ」


だが、ノアの姿は薄れていく。


「まだ、先の話です」


「でも――」


最後に、ノアははっきりと言った。


「箱舟は、空にあります」


「忘れないでください」


目覚め。


朝の光。

鳥の声。

完璧な日常。


だが、悟志は布団の中で、しばらく動けなかった。


眠りは、休息ではない。


移動だ。


では――

自分たちは、どこへ行っている?


悟志は、天井を見つめたまま、静かに息を吐いた。


次に眠るとき、

もう戻れなくなる場所がある気がしてならなかった。

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