第3話 正される気配
研究所の昼休みは、いつも通り静かだった。
電子音とキーボードの音だけが流れ、誰もが自分の作業に没頭している。
悟志も端末に向かっていたが、画面の数式はまったく頭に入ってこなかった。
(忘れろって言われてもな……)
昨夜の“裏側”の感触が、まだ残っている。
夢にしては鮮明すぎた。
「悟志、休憩しないの?」
朋美が声をかけてきた。
「……ああ、そうだな」
屋上に出ると、空は今日も正確だった。
雲の形、光の角度、空気の透明度。
昨日と、ほぼ同じ。
悟志は無意識に呟く。
「完璧すぎる」
「何が?」
「いや……この空」
朋美は空を見上げ、少し考えてから笑った。
「研究者の発言じゃないわね。
でもまあ、奇跡的なバランスではあるけど」
太陽と月。
距離と大きさ。
偶然にしては、出来すぎている。
悟志はそれ以上、何も言わなかった。
——その夜。
再び、意識が沈む。
今度は、目を閉じた瞬間だった。
神殿の床。
黄金の光。
柱の文字。
「早いですね」
ノアがいた。
前よりも少し、光が安定しているように見える。
「昨日は、あまり寝てなかっただろ」
ロキが腕を組み、ため息をついた。
「人間のくせに、無駄に考えすぎだ」
「ロキ様」
ノアの声が鋭くなる。
「あなたは少し、いい加減すぎます」
「お、叱られてる?」
悟志は思わず口を挟んだ。
ロキがちらりと悟志を見る。
「お前もだ」
「え?」
「ノアがどれだけ気を使ってるか、分かってない」
ノアが小さく揺れた。
「……ロキ様」
「ほら、まただ」
ロキは頭を掻いた。
「守る側が甘いと、壊れるんだよ。
分かってるだろ?」
悟志は二人を見比べた。
冗談めいているが、空気は軽くない。
ここは、ただの夢の空間じゃない。
「ノアは……何者なんだ?」
その問いに、空気が一瞬、張り詰めた。
ノアは答えない。
代わりに、ロキが言う。
「人間じゃない」
悟志は息を呑んだ。
「でも、道具でもない」
ロキの視線がノアに向く。
「役割を持たされた存在だ。
守るための、意思」
ノアが悟志の前に来る。
「私は、箱の“内側”を守る存在です」
「箱……」
「あなたたちが地球だと思っている場所」
悟志の心臓が跳ねた。
「やっぱり……」
ノアは、そこで初めて少し困ったように揺れた。
「まだ、そこまで踏み込むべきではありません」
「でも!」
悟志は声を荒げた。
「完璧すぎる空も、忘れる夢も、
全部、偶然じゃないんだろ?」
ロキが小さく笑った。
「やっぱり、気づくよな」
「ロキ様!」
「いいだろ。遅かれ早かれだ」
ノアはしばらく沈黙し、それから言った。
「悟志。あなたは、守られている」
「誰に?」
「……多くの犠牲によって」
その言葉が、胸に重く落ちた。
「だからこそ」
ノアの声が、少しだけ強くなる。
「怠けないでください」
「え?」
「考えることをやめないで。
疑問を放置しないで」
ロキが肩をすくめる。
「優しいだろ? だから叱るんだ」
悟志は、ノアを見た。
小さな光体。
だが、その奥にある意思は、驚くほど重い。
「……ノアは、怖くないのか?」
「怖いですよ」
即答だった。
「でも、守ると決めています」
その瞬間、神殿が再び揺れた。
「時間です」
ノアが言う。
「次に来る時、あなたはもっと知りたくなる」
「それは……危険か?」
ロキが代わりに答えた。
「命を懸けるくらいにはな」
悟志は目を閉じた。
そして、開いた。
——朝。
いつもの音。
いつもの光。
だが、今日は違った。
悟志は、はっきりと思った。
この世界は、誰かが守っている。
そして、その誰かは――叱るほどに優しい。
机の上のノートを開く。
新しい文字が、増えていた。
――「守られていることに、甘えるな」
悟志は、ゆっくりと息を吐いた。
疑問は、もう止まらない。
そしてそれは、
やがて“箱”の外へ繋がっていくことを、
彼はまだ知らない。




