第2話 繰り返される朝
その夜、悟志はなかなか眠れなかった。
布団に横になって目を閉じても、まぶたの裏に昼間の光景が浮かぶ。
神殿の柱。宙に浮かぶ光。怠そうに寝転ぶ男。
そして、白く小さな存在――ノア。
(夢じゃない)
そう思った瞬間、胸の奥がざわついた。
理屈で説明しようとすればするほど、説明できない。
脳が拒絶しているのに、感覚だけが「本当だ」と告げてくる。
「……落ち着け」
悟志は寝返りを打った。
隣では朋美が規則正しい寝息を立てている。
その安定した呼吸が、今夜はやけに遠く感じられた。
やがて、意識がゆっくり沈んでいく。
——暗転。
気づくと、悟志は立っていた。
床は石。空間は広く、天井が見えない。
黄金色の光が漂い、柱には見慣れない文字が刻まれている。
「……ここは」
言葉にした瞬間、背後からため息が聞こえた。
「遅い」
振り返ると、そこにいた。
毛皮付きの外套を羽織り、だらしなく柱にもたれている青年。
黒髪は無造作で、表情はやる気がなさそうだ。
「また随分、寝つきが悪かったみたいだな」
「……お前は」
「ロキ。で、こっちは」
ロキの視線が上を向く。
そこに、ふわりと浮かぶ白い光があった。
丸く、小さく、赤ん坊のように不安定に揺れている。
だが、その声ははっきりしていた。
「自己紹介くらい、ちゃんとしてください」
凛とした、少し怒った声。
「ノアです。……まったく、ロキ様は」
「はいはい」
ロキは軽く手を振った。
悟志は言葉を失っていた。
夢のはずなのに、足裏に床の冷たさを感じる。
空気の匂いも、距離感も、現実そのものだ。
「これは夢か?」
「違います」
即答したのはノアだった。
「正確には、“現実の裏側”です」
「裏側……?」
ノアは悟志の周囲をふわりと一周した。
「あなたたちが眠っている間、意識はここに来ます。
ただし――」
ノアの声が少し低くなる。
「起きたら、全部忘れます。忘れるように、作られているから」
「作られている?」
悟志の胸が締めつけられた。
「誰に?」
ロキが視線を逸らした。
ノアは一瞬だけ黙り、それから言った。
「今は、知らなくていい」
同じ言葉。
昼に聞いた声と、まったく同じだった。
「知れば、戻れなくなることもあります」
「……戻るって、どこに」
悟志が問うより先に、ノアが指先――正確には、光の一部を振った。
空間の一角が歪み、映像が浮かび上がる。
見慣れた街。
研究所。自宅。夜の住宅街。
「あなたの“日常”です」
悟志は映像に釘付けになった。
「それは……俺がいる場所だ」
「ええ。正確には、あなたが“住んでいる”場所」
ノアの声は静かだった。
「でも、あなたが思っている場所とは、少し違う」
ロキが欠伸を噛み殺しながら言う。
「要するにだ。あっちは箱で、ここは通路みたいなもんだ」
「箱?」
「そう。閉じてる。守られてる。完璧に」
悟志の脳裏に、あの空が浮かんだ。
正確すぎる太陽。誤差のない月。
「守ってるのは誰だ」
ノアは答えなかった。
代わりに、悟志の目をまっすぐ見据えた。
「あなたは、まだ“外”を知らない」
「外?」
「箱の、外です」
ノアの光が、ほんの少し揺れた。
「でも、あなたは気づき始めている。
だから、ここに来てしまった」
ロキが肩をすくめる。
「気づきの早い学者ってのは、面倒なんだよな」
「ロキ様」
「はいはい」
そのやり取りが、妙に自然で、悟志は逆に怖くなった。
「……ノア」
思わず名前を呼ぶ。
「俺は、人間だよな?」
ノアは一瞬、言葉に詰まったように見えた。
「ええ」
そして、こう付け足した。
「あなたは、人間です」
微妙な言い回しだった。
そのとき、神殿全体が低く唸った。
床が震え、柱の文字が淡く光る。
ノアがはっとした。
「時間です」
「もうか?」
ロキは面倒そうに立ち上がった。
「次は、もう少し早く来いよ」
悟志は焦った。
「待て! まだ何も――」
ノアが悟志の前に来る。
光が近づき、胸の奥が温かくなった。
「覚えていなくていい」
「え?」
「でも、“疑問”だけは残してください」
ノアの声は、どこか優しかった。
「疑うことを、やめないで」
次の瞬間、強い光が走った。
——目が覚める。
朝だった。
カーテン越しの光。
鳥の声。
遠くを走る電車。
完璧な朝。
悟志は荒い息を吐き、天井を見つめた。
夢だった。
そう思おうとした。
だが、胸の奥に、はっきりと残っている。
“疑問”。
枕元で、ピーコが小さく鳴いた。
「……だいじ」
悟志は、ゆっくりと体を起こした。
世界は何も変わっていない。
それなのに、自分だけが、もう同じ場所にいない気がした。
ノアの言葉が、耳の奥で静かに響いていた。
――疑うことを、やめないで。
悟志は、今日も研究所へ向かう。
完璧な空の下で、
完璧ではない違和感を抱えながら。




