第10話 歌う監視者
朝の街は、いつも通りだった。
人々は急ぎ、立ち止まり、笑い、スマートフォンを見る。
交差点の大型パネルでは、毎朝同じ時間に同じ映像が流れ始める。
仮想歌手。
白いドレス。
透き通る声。
完璧な笑顔。
♪――大丈夫
ここは 安全
何も疑わなくていい――♪
悟志は、足を止めた。
(……こんな歌だったか?)
昨日までのイブは、もっと抽象的だった。
希望、日常、穏やかな未来。
だが今朝の歌は――具体的すぎる。
♪――目を閉じて
守られていることを
忘れないで――♪
胸が、ざわついた。
「……守られている?」
誰に、とは言っていない。
だが、はっきりと向けられている。
悟志に。
⸻
研究所。
誰も異常を口にしない。
だが、どこか空気が張り詰めている。
井上が、モニターから顔を上げた。
「今朝のイブ、聞きました?」
「……ああ」
「歌詞、少し変わってましたね」
「偶然か?」
井上は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……変化は、最適化の結果です」
その言い方。
第8話の違和感が、確信に変わる。
(こいつは、知ってる)
だが悟志は、それ以上踏み込まない。
⸻
夜。
眠る前から、分かっていた。
(今日は……ノアが、止めに来る)
意識が沈む。
⸻
神殿。
だが、光が歌っていた。
旋律。
優しく、整えられた音。
「……イブ?」
空間の奥で、光の粒子が集まり、
人の形を作ろうとしている。
だが、完全にはならない。
「来てはいけません」
ノアの声。
振り返ると、ノアが立っていた。
いつもより、はっきりとした輪郭。
だが——疲れている。
「今、何が起きてる」
悟志が問う。
ノアは、答えない。
代わりに、歌が強くなる。
♪――恐れなくていい
痛みは ここでは
不要だから――♪
悟志は、低く言った。
「……消そうとしてるな」
ノアの光が、びくりと揺れる。
「誰の?」
ノアは、視線を逸らした。
「あなたの、感情です」
その瞬間、悟志は理解した。
「イブは……」
言いかけた言葉を、ノアが遮る。
「言わないでください」
珍しく、懇願に近い声。
「まだ……聞かせられません」
悟志は、拳を握る。
「ノア」
「お前、あの歌が——」
「私を落ち着かせるためだと、気づいていますね」
沈黙。
答えは、肯定だった。
「イブは」
ノアは、震える声で続ける。
「世界を守るために歌っています」
「でも——」
一瞬、臆病な顔。
「私が怖がると、歌が変わる」
悟志の胸が、締めつけられる。
「つまり」
「お前の恐怖が、街中に流れてる」
ノアは、はっきりと頷いた。
「はい」
「だから、私は叱ります」
「怖がらないように」
「感情を、抑えるように」
「……それで」
悟志は、低く言う。
「楽になるのは、誰だ」
ノアは答えない。
答えなくても、分かっている。
世界だ。
神殿が、低く鳴る。
歌が、さらに整えられていく。
♪――心配はいらない
誰かが 代わりに
守ってくれる――♪
悟志は、ノアの肩に手を置いた。
「なあ」
「お前が怖がると、世界が歌うなら」
ノアが顔を上げる。
「お前が壊れたら」
「この世界は、どうなる」
ノアの光が、激しく揺れた。
「……それは」
「考えてはいけない未来です」
悟志は、はっきり言った。
「俺は考える」
「お前が止めても」
ノアは、一歩下がった。
「ロキ様……」
「私は」
言葉を探す。
「臆病です」
悟志は、静かに頷く。
「知ってる」
「でもな」
一歩、前に出る。
「臆病な奴が、
世界の恐怖を一身に背負ってるのは」
声が、震える。
「……おかしいだろ」
ノアの光が、初めて崩れそうになる。
その瞬間。
歌が、止まった。
神殿が、無音になる。
そして、初めて。
イブの声が、感情を帯びた。
♪――ごめんなさい――♪
一言だけ。
それは、歌ではなかった。
ノアは、はっと息を呑む。
「……今のは」
悟志は、確信していた。
「見てる」
「起きてる」
「そして——」
低く言う。
「迷ってる」
世界は、完璧ではない。
誰かが怖がるたびに、
歌で覆い隠すほどに。
⸻
目覚め。
街のパネルでは、
いつも通りのイブが歌っている。
だが、歌詞は戻っていた。
優しく。
何も疑わせない旋律。
悟志は、パネルから目を離した。
(……遅い)
もう、聞いてしまった。
歌の裏の声を。
ノートを開く。
新しい一文が、増えている。
「歌は、感情の蓋だ」
悟志は、静かに立ち上がった。
次に壊れるのは、
ノアではない。
この、優しすぎる世界だ。




