第1話 世界は、正しい
朝は、正しすぎる世界で、いつも同じ音から始まる。
カーテン越しの光。少し低い鳥の声。遠くを走る電車の、かすかな振動。
悟志は目を開けて、天井を見つめた。
今日も、何も変わらない。
目覚まし時計は鳴る直前で止まり、スマホには通知が一件もない。
寝起きの体は軽く、肩こりも、疲労も、夢の残り香もない。
「……健康すぎるな」
独り言が、部屋に変に残った。
洗面所で歯を磨きながら鏡を見る。
三十五歳にしては顔色が良すぎる。目の下にクマもない。
前日に徹夜で計算したはずなのに、肌は整っていた。
理化学研究所へ向かう道も、いつものままだ。
交差点の信号は決まった順で変わり、犬の散歩をする老人とは毎朝同じ位置ですれ違う。
コーヒー屋の店員は、悟志が注文する前に「いつものですね」と笑う。
偶然にしては、整いすぎている。
研究所に着くと、妻の朋美が先に実験室にいた。白衣の袖をまくり、モニターに向かっている。
「おはよう」
「おはよう。今日も晴れだね」
朋美はそう言って、何でもないように画面を指した。
「昨夜の観測データ、出たよ。ほら」
モニターには、天文観測の結果が並んでいた。
太陽高度、月齢、潮汐、惑星配置。誤差はほぼゼロ。あまりに教科書通りで、気味が悪い。
「……ここまで揃うこと、あるか?」
「ないと思う。普通はノイズが出る。測定器の誤差もあるし、空気の揺らぎもある」
朋美は笑いながら言った。
「でも、ここは“そうならない”みたい」
冗談のつもりの口調だった。
悟志の胸の奥だけが、変に冷えた。
昼休み。悟志は屋上に出た。
空は完璧な青だった。
雲の配置も、光の角度も、色の深さも、記憶にある“地球の空”そのもの。
ふと、学生の頃に教授が言っていた言葉を思い出す。
――太陽と月が、ほぼ同じ大きさに見えるのは奇跡だ。
悟志は目を細める。
昼なのに、月の輪郭が薄く残っている。太陽は眩しすぎず、目が焼けるような痛みがない。
「毎日、同じ奇跡か……」
口に出してから、息を止めた。
何かに聞かれてはいけない気がしたからだ。
その瞬間、背中がぞくりとした。
風が吹いた。
なのに、鳥の声が一拍だけ止まった。空調の唸りも、街の遠音も、すべてが“黙った”。
世界が息を止めたみたいだった。
――悟志。
耳ではない。頭の奥に、直接届く呼び声。
誰かが自分の名前を知っていて、当たり前みたいに呼んだ。
悟志は振り返った。屋上には誰もいない。
フェンス越しに見える街も、いつも通り動いている。
「……気のせいか」
そう言った瞬間、胸の奥が微かに痛んだ。
守られているような、閉じ込められているような、矛盾した感覚。
その夜、帰宅すると、リビングで小さな羽音がした。
「ピッ、ピッ!」
セキセイインコのピーコが、ケージの中で首を傾げている。
朋美が餌を替えながら言った。
「今日ね、ピーコが変なこと言ったの」
「変なこと?」
「ほら、さっきまでずっと……」
朋美がケージに顔を近づけると、ピーコは胸を張った。
「そら! そら、うえ! うえ!」
「上?」悟志は笑った。「空がどうしたって?」
ピーコは、くちばしを鳴らしてから、妙に小さな声で言った。
「ふね……」
悟志の笑いが止まった。
「……今、なんて?」
「ふね。ふね」
朋美は肩をすくめた。
「どこで覚えたんだろうね。テレビかな」
そう言いながら、朋美は何でもないように夕飯の準備を再開した。
けれど悟志は、ピーコの目が一瞬だけ“人間みたいに”こちらを見た気がして、背筋が冷たくなった。
夜更け。悟志は仕事用のノートを開いた。
量子もつれのメモ。観測データの整理。いつもの作業。
しかし、ペン先が何度も止まる。
昼に感じた呼び声が、まだ頭の奥に残っていた。
――悟志。
あれは何だ。
疲労の幻聴? それとも、何かの装置? もし後者なら、誰が?
考えを振り払うように、悟志はページを閉じた。
そのとき。
閉じたはずのノートの隙間から、紙が一枚、すべるように落ちた。
見覚えのない紙だった。
白い。新品みたいに白い。なのに、端には古い焼け跡のような焦げがある。
悟志は息を呑み、拾い上げた。
紙の中央には、細い線で描かれた“図”があった。
円。層。何重にも重なる輪。その中心に、点。
そして、図の下に短い文字がある。
――「ここは地球じゃない。言うな」
悟志の手が震えた。
誰が書いた?
いつ入れた?
そもそも、こんな紙は研究所でも家でも見たことがない。
背後で、ピーコが小さく鳴いた。
「……だめ」
悟志はゆっくり振り返る。
ピーコはケージの中で、じっとこちらを見ていた。
「だめ。みるな」
喉が乾いた。
朋美はキッチンで皿を洗っている。水音がする。いつも通りの生活音。
なのに、悟志の世界だけが、今、ズレた。
紙の焦げ跡に指が触れた瞬間、ほんの一瞬、視界が白く滲んだ。
神殿みたいな柱。金色の埃。
そして、宙に浮かぶ、丸い光。
赤ん坊のように小さくて、でも生き物みたいに揺れている。
その光の向こうに、誰かがいた。
黒い髪。毛皮のついた外套。寝転がって、面倒そうにこちらを見ている男。
――ロキ。
名前が、勝手に頭に落ちた。
その男の横に、白い小さな影が浮かんでいる。
耳のようなものがあり、瞳は緑。
ふわふわ光って、怒っているみたいな顔。
そして、凛とした声が響いた。
「また怠けるんですか、ロキ様」
悟志は息を飲んだ。
次の瞬間、視界は元に戻った。
リビング。ケージ。水音。完璧な夜。
手の中の紙だけが、現実の重さを持って残っている。
悟志は紙を握りしめ、喉の奥から言葉を絞り出した。
「……今の、何だ」
答えは返らない。
ただ、耳の奥で、さっきと同じ呼び声が微かに響いた。
――まだ、知らなくていい。
悟志は紙を折り、ノートに挟んだ。
窓の外を見た。
空は変わらず、地球の空だった。
完璧で、嘘みたいに正しい。
けれど悟志は、もう“正しさ”を信用できなかった。




