第95話 甦れ、命 5
緩和ケア部長、穂積。
穏やかな顔。
死を見すぎて穏やかになった顔だ。
だが目だけは鋭い。
優しさの裏に、現実を手放さない目がある。
阿羅業は穂積の前で止まり、背後から漏れるバイオリンの秋を聞いた。
終わりの匂いのする音だ。
だが終わりの音があるから、人は次を欲しがる。
「残念だが」
阿羅業が言った。声は軽い。軽いが、言葉は重い。
「そう近くない未来、お前は失業する」
穂積は眉を上げる。
「随分と乱暴な予言だな」
阿羅業は肩をすくめた。
「倫理問題をパスすれば、X3000の遺伝子修復治療が癌細胞を根こそぎ退治しちまう。
緩和ケアの椅子が余る。お前の出番は少なくなる」
穂積はすぐに反論しなかった。
緩和ケアの医者の沈黙は長い。
沈黙は祈りに似ているが、祈りそのものではない。
現実を抱え直すための間だ。
「そうかな」
穂積が言う。
「人間が癌を越えた未来には、遺伝子治療で治せない別の難病が出てくるかもしれない。生物の細胞分裂は無限回できるわけでもない、生命には必ず終わりが来る」
阿羅業の口元が歪んだ。
笑いか、苦笑か、どちらでもいい。
正しい言葉は、救いがない。
「神は性根が腐ってるからな」
阿羅業はあっさり言った。
その言葉の直後、ホールから冬の旋律が漏れた。
透明で、冷たく、でもどこか温かい音。
穂積が、少しだけ笑う。
「その時は、また君の"外道の医術"の出番が来るのか」
阿羅業は軽く手を挙げた。
敬礼ではない。さよならでもない。
"またな"の合図。
医者同士の、次の地獄で会う約束の手だ。
ホールへ戻ると、冬の終わりが近づいていた。
炎冥の弓が、最後の音を細く伸ばす。
細く、細く、消える。
音が消えた瞬間、ホールの中に残ったのは沈黙ではない。
呼吸だ。
美亜の小さな吸気。
龍雅の浅い吐息。
阿羅業の、言葉にならないため息。
炎冥は、弓を下ろした。
肩が少しだけ落ちる。
その落ち方が、人間だった。
強化兵でも、怪物でもない。
命を救われた男の、普通の重力だった。
美亜が立ち上がり、拍手の代わりに小さく頷いた。
その頷きが、拍手より重い。
"あなたは生きている"という承認だからだ。
炎冥は、初めて美亜を見た。
見て、少しだけ笑った。
笑い方は下手だった。
だが拙い笑いに、嘘はない。
「帰ってみたら、……本当に世界はうるさいな……」
炎冥が呟く。
美亜は涙を拭って、返した。
「うるさくていい。生きてる音だから、生きているという事だから」
阿羅業は、そのやり取りを聞いて、胸の奥で小さく舌打ちした。
照れ隠しの舌打ちだ。
阿羅業が幸せに弱いのは、職業病だ。
そして、冬の終わりの静けさの中で、阿羅業は思った。
外道の医術でも、救えるものがある。
救えるものがある限り、終わらない。
緩和ケア病棟の夜は、今日も音が澄んでいた。
死の隣で。
生の真ん中で。
生と死が交じり合う世界の中で。




