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第94話 甦れ、命 4

 埼京医大病院・緩和ケア病棟。


 静かな夜は、音が殊更澄んで聞こえてくる。


 生者の寝息と、死者の沈黙が、同じ廊下を渡っていく。


 ここでは、誰も大声を出さない。


 小さなホールの照明は落とされ、客席の影がやわらかく溶けていた。


 そのステージに立っているのは、張 炎冥。


 ついさっきまで、彼は死の淵を覗いていた。


 胸の奥で、己が心臓が裏切り、息を細めて、目の前が暗転する――魂が切れ間なく続く死の縁を彷徨う。


 そして、その暗闇から引き戻したのが、御子神龍雅と阿羅業だった。


 炎冥の肩にかかるバイオリンの顎当てが、少しだけ震えた。


 今感じる震えは恐怖ではない。


 生き延びた者が、もう一度"生きる手の動き"を覚え直すための震えだ。


 譜面台はない。


 今夜、必要なのは正確さじゃない。


 呼吸と鼓動と、取り戻した温かい体の中身を、音に変えることだ。


 彼は弓を置いた。


 ――ビヴァルディ《四季》。


 春の最初の一音が、ホールの空気を撫でた。


 撫でた瞬間、病棟の匂いが少しだけ薄くなる。


 死に塗れた空気が、澄んだ音に押し流される。


 客席の中央に、羽田美亜がいた。


 彼女は膝の上で手を組み、指先を静かに絡めている。


 目を閉じない。


 閉じると、音より先に嘗て嗅いだ空気の記憶が訪れるからだ。


 美亜もまた、死の匂いを嗅いでいた。


 あの監禁。あの恐怖。息の詰まる沈黙。


 命を取り留めたという思いは、治療台から降りても直ぐには湧き上がっては来ない。


 救われたという実感が今になって遅れて訪れてきた。


 美亜は、炎冥の弓の動きだけを見ていた。


 弓が行き、戻り、音が立ち上がる。


 そのたびに、死に対する恐怖に囚われた美亜の心の鎖が少しずつ解けていく。


 言葉では解けない結び目が、耳から訪れる生命の響きを奏でる音でほどけていった。


 少し離れた席に、御子神龍雅が座っていた。


 腕を組み、表情を動かさない。


 だがその肩の角度が、ほんのわずか柔らかい。


 責任という鎧を、床に少しだけ置いている姿勢だ。


 そして――阿羅業。


 阿羅業は客席の端に座り、真正面を見ていなかった。


 見れば、たぶん壊れる。


 医者は、救った命が笑う瞬間に限りなく弱い。


 救えなかった命のほうには慣れていても、救えた命の眩しさにはどうしても慣れない。


 春が、夏へ滑る。


 夏の音は鋭い。熱の刃だ。


 その刃の先で、炎冥は一瞬、息を詰めた。


 心臓が、昔の癖で不吉に跳ねようとする。


 ……来るか?


 炎冥はそう思い、弓を少しだけ強く押した。


 強さで押し返すのではない。


 "生きる側のリズム"へ心臓を引き戻すための圧だ。


 音が伸びる。


 伸びた音が、ホールの天井に当たり、戻ってくる。


 戻ってきた音は、少しだけ優しい。


 美亜の目尻が濡れた。


 涙だ。


 涙は、弱さじゃない。


 生きている証拠。


 炎冥は美亜を見ない。


 見れば、弓が揺れる。


 揺れれば、音が嘘をつく。


 うそぶく音は、この病棟に似合わない。


 だから彼は前だけを見る。


 前を見ることで、美亜の涙を守る。


 そういう守り方もある。


 曲が秋へ入る頃、阿羅業が静かに席を立った。


 足音を立てない。


 ここが緩和ケア病棟だと、身体が覚えている。


 廊下に出ると、白衣の男が立っていた。

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