第93話 甦れ、命 3
「……嘘つけ」
阿羅業は笑った。
今度は笑えた。
笑えたから、涙が出そうになった。
波多野は首を振った。
「お前、森で言っただろ。
『娘は俺たちが助けてやる』って。
『だから倒れろ』って」
阿羅業は歯を食いしばった。
あのときは、嘘じゃなかった。
嘘じゃなかったから、苦しい。
波多野は続けた。
「俺は最後にそれを聞いた。
あのとき、少しだけ……楽になった」
阿羅業の喉の奥が熱くなった。
医者が泣くのは、患者の前ではない。
医局で泣く。
誰にも見られない場所で泣く。
それが医者の狡さだ。
「……お前さ」
阿羅業は声を落とした。
「娘を救うためなら、何でもやる顔してたくせに、
最後に"守る"ほうを選んだな」
波多野は、少しだけ目を細めた。
父親の目だ。
兵士の目じゃない。
「怖かった」
波多野が言った。
「娘が死ぬのが怖かった。
娘が死んだら、俺が一人になるのが怖かった。
だから、俺は……汚いミッションを飲んだ」
阿羅業は黙った。
汚いこと。
医者は、汚いことは何度も見てきている。
だが"汚い理由"まで、こんなに真っ直ぐ聞かされたことはない。
波多野が、続ける。
「でもな。お前らが言ったんだ。
『罪のない科学者を殺した父を、娘は認めない』って」
阿羅業は、胸の奥で何かが折れる音を聞いた。
折れたのは、怒りでも誇りでもない。
"正しさの形"だ。
波多野は、穏やかな声で言った。
「志津子の顔が浮かんだ。
泣く顔じゃなくて……寝てる顔が浮かんだ。
あの顔を守りたいなら、俺は――守る側に回るしかなかった」
阿羅業は、目を閉じた。
泣くと決めた人間の閉じ方だった。
「……間に合ったのか」
阿羅業が、もう一度訊いた。
訊かなくても分かっているのに、訊いた。
波多野は頷いた。
頷き方が、軽かった。
肩から鎧が落ちたみたいに。
「間に合った」
そして、少しだけ間を置いて、言った。
「ありがとう」
ありがとう。
医者が一番、言われたくて、言われると一番困る言葉だ。
困るほど、重い。
重いほど、温かい。
阿羅業は、机の上のペンを掴みそうになってやめた。
書き留めたいのに、書き留めた瞬間、嘘になる気がした。
ありがとうは、カルテに書けない。
書いたら制度に吸われてしまう。
「波多野」
阿羅業は言った。
「……志津子に、何か言い残すことは」
波多野は首を振った。
「言わない」
即答だった。
阿羅業が眉を寄せる。
「なんでだ」
波多野は、少しだけ笑った。
「言い残したら、あの子は一生、俺の声に縛られる。
俺はもう……縛りたくない」
阿羅業の胸が痛んだ。
父親の愛は、最後に"離す"ことになる。
離すのは、どんな手術より難しい。
波多野は、医局のドアの方を見た。
そこに何かがあるわけじゃない。
ただ、行き先が分かっている者の目だった。
「……そろそろ行く」
波多野が言った。
阿羅業は、言葉が出なかった。
引き留める資格がない。
医者は命を繋ぐことはできても、死者を止められない。
「なあ」
波多野が振り返った。
「志津子が、大きくなって……俺のことを訊いたら」
阿羅業は、呼吸をひとつ整えて答えた。
「言う。
お前は、最後に守るほうを選んだって」
波多野が頷いた。
「それでいい」
そして、阿羅業の方へ一歩近づき、低い声で言った。
「お前、外道医なんだろ」
「うるせぇ」
阿羅業は笑った。
笑った瞬間、涙が一滴落ちた。
情けないほど素直な涙だった。
波多野は、その涙を見て、少しだけ安心した顔をした。
泣かせたかったわけじゃない。
泣ける医者でいてほしかっただけだ。
「……頼むぞ」
波多野が言った。
「生きてる奴らを、ちゃんと生かしてくれ」
阿羅業は頷いた。
言葉にすると壊れるから、頷いた。
波多野は、ゆっくり背を向けた。
歩き方は普通だった。
兵士の歩き方でも、強化兵の歩き方でもない。
ただ、父親が帰る歩き方だった。
医局の蛍光灯の白が、波多野の輪郭を少しずつ薄くしていく。
薄くなっていくのに、温度だけが残る。
土の匂い。森の湿り気。
そして、あの男が最後まで抱えていた"娘の名"。
「志津子……」
波多野が、小さく呟いた。
それは呼びかけじゃない。
祈りだ。
阿羅業は、椅子の上で拳を開いた。
開いた掌に、涙が落ちた。
涙は温かい。
温かいから、悔しい。
悔しいから、明日も医者をやる。
波多野の影が、ドアの向こうへ消える直前、声がした。
背中越しの声だ。
「……生きてるほうが、しんどいぞ」
阿羅業は、笑って泣いた。
「知ってるよ」
そして、医局の空気が元に戻った。
換気扇の音が戻り、廊下の足音が戻り、時計がまた秒を刻み始めた。
阿羅業は目を閉じた。
今度は逃げるためじゃない。
心を一度、整えるためだ。
―波多野、お前は冥界へ行った。
―だが、お前の選んだ"守る"は、ここに残った。
―志津子の脈の中に残った。
―医者の手の中に残った。
阿羅業は、机の上のカルテに手を置いた。
そこに書けるのは数字だけだ。
だが数字の裏に、今夜の会話をそっと畳んで入れた。
そして小さく呟いた。
誰にも聞かせない声で。
「……間に合ったな。波多野」




