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第92話 甦れ、命 2

 炎琳は、志津子の頬を一度だけ見た。


 寝息一つ立てず、眠っている。


 眠りの顔は無防備で、無防備すぎて怖い。


 この無防備を守るために、奥多摩の森で何人も死んだ。


 波多野が見ていたのは……この顔だった。


 この寝顔のために、あいつは"任務"を飲んだ。


 そして最後に、"任務"を捨てた。


 阿羅業が、低く言った。


「……俺はさ、外道医でいい。ただ……あいつには、最後に言ってやりたかった」


 炎琳が、息を吐く。


「何を」


「……『間に合う』って」


 阿羅業の声が少しだけ掠れた。


「『お前の娘は、間に合うぞ』って。それを伝えていたら、あいつは――少しは楽に死ねたかもしれん」


 炎琳は、画面を見たまま、頷いた。


「……悔しいわね」


 炎琳が言った。


「私たちは、勝ったのに悔しい」


 阿羅業が短く笑った。


 今度は笑えた。


 笑いは勝利じゃない。


 悔しさを飲み込むための呼吸だ。


「医療はいつもそうだ。

 救っても救っても、悔いが残る。

 悔いが残るから、次も手を動かす。

 悔いが残らない医者なんて、ただの器械だ」


 その言葉は、炎琳の胸を少しだけ軽くした。


 軽くしたが、消えない。


 消えないほうがいいものもある。


 消えなかった悔しさは、次の命を救う糧になる。


 X3000の画面に、短い表示が出た。


「安定化」


 "安定"という言葉は、世界で一番信用ならないのに、いまは世界で一番ありがたかった。


 志津子の呼吸が、わずかに深くなる。


 脈が整う。


 朱を射した皮膚の色が、ほんの少しだけ温かく見える。


 炎琳は、唇を噛んだ。


 噛まないと泣く。


 泣くと手が鈍る。


 医者は泣き方を選べない。


 阿羅業が、志津子の額に手を置いた。


 医者の手ではない。


 父親に代わることはできない手だ。


 それでも、いまここにある手だ。


「……なあ、波多野」


 阿羅業は、誰にともなく言った。


「お前の娘、いま――生きてるぞ。

 ちゃんと、生きてる」


 炎琳は、目を伏せないまま、声だけで言った。


「波多野……聞いて。あなたは間違っていた。

 でも最後に、ちゃんと"正しい方"を選んだ。

 その選択が、いまここに生きてる」


 治療室の外の廊下は静かだった。


 病院の静けさ。


 戦場の無音とは違う。


 ここには、命の音がある。


 小さな呼吸。


 モニターのピッ、という規則。


 そして、医者の足音。


 炎琳は手を止めずに、胸の中でだけ最後の文書を書いた。


 この治療は、波多野の弔いではない。


 弔いは死者のためのものだ。


 治療は、患者に対しての生への導きだ。


 そして、生者は、今日も面倒くさく生きていく。


 それでいい。


 面倒くさい世界だから、頽れない命は救う価値がある。


 治療室の蛍光灯は、夜になると少しだけ残酷になる。


 蛍光灯の白すぎる光は、血の色を、正しく見せてしまう。


 止血が適わず、とめどなく噴き上がる血液を、鮮やかに正しく見せられる時ほど、医者の心が削られる瞬間はない。


 阿羅業は椅子に深く沈み、目を閉じた。


 瞼の裏に、モニターの数字が残っている。


 脈拍。酸素飽和度。修復率。


 人を救ってきた数字が、救えなかったものの影を連れてくる。


 救えた。


 志津子は――助かった。


 X3000は、ぎりぎりで踏ん張った。


 炎琳は手を震わせなかった。


 俺も手を震わせなかった。


 なのに、胸が痛い。


 勝ったはずなのに、口の中が苦い。


 歓びを分かつはずの者が不在のままの勝利というものが、こんなに不味いとは思わなかった。


 医療の勝利は、いつだって"誰かの不在"を含む。


 阿羅業は、机の上に肘をついた。


 指先が、知らないうちに拳になっている。


 拳にすると、少しだけ現実に踏ん張れる。


 阿羅業の癖だ。


 殴るつもりも無いのに拳を作る。


「……波多野」


 声に出した瞬間、医局の室内の空気が変わった。


 換気扇の音が遠くなる。


 廊下の足音が薄くなる。


 闇という膜が、さらに厚くなる。


 阿羅業は、目を閉じたまま、もう一度息を吐いた。


 吐いた息が戻ってくる。


 その時だった


 戻ってくるはずのないものが、戻ってきた気がした。


「呼んだか」


 声は低かった。


 怒鳴り声じゃない。命令でもない。


 ただ、泥の匂いが混じった声だった。


 阿羅業は目を開けなかった。


 開けたら、壊れる気がした。


 医者のくせに、そんな迷信みたいなことを思う。


「……お前、死んだんじゃなかったのか」


 阿羅業は、笑うふりをした。


 笑えない。だから、鼻で息を鳴らした。


「死んだよ」


 波多野の声は淡々としていた。


 淡々としているのに、優しい。


 優しいのは、もう戦う必要がないからだ。


 阿羅業は、瞼の裏に浮かんだ姿を見た。


 森の霧の中の黒い影。


 拳を握ったまま、娘の名を吐いた男。


 強化兵バトル・エリートの皮を被った、ただの父親。


「志津子は――」


 阿羅業の喉が、少し詰まった。


 詰まったまま言った。


「助かった。生きてる。……今も」


 沈黙。


 その沈黙が、すべてだった。


 涙を堪える沈黙じゃない。


 "間に合った"という二文字を、噛み締める沈黙だ。


 そして波多野が、息を吐くように言った。


「そうか」


 阿羅業は、その「そうか」で、胸の奥を殴られた。


 歓喜でも絶叫でもなく、ただの二文字。


 その二文字に、波多野の人生の全部が詰まっている。


「阿羅業は、握った拳をほどけないまま言った。


「生きてたら、俺が言えたんだ。

 『間に合う』って。

 『お前の娘は間に合う』って――言えたんだ」


 波多野が、少しだけ笑った。

 笑いのは巧くなかった。

 不器用な笑いだ。

 でも、あの森で見た笑いより、ずっと人間だった。


「聞こえたよ」

 波多野が言った。


 阿羅業は、思わず顔を上げた。

 目を開けてしまった。

 禁忌を破ったような気がしたが、自分ではもうどうしようもなかった。


 阿羅業の椅子の前に、波多野が立っていた。

 血も泥もない。

 装備もない。

 肩も砕けていない。

 ただ、普通の男が、普通の立ち方で立っていた。



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