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第91話 甦れ、命 1

 東京新宿、南早稲田。埼京医科大学病院。


 救急入口の蛍光灯は、頽れた者に優しい。


 命を取り戻すための道標だ。


 阿羅業と張炎琳は、深夜の治療室にいた。


 そこに漏れる、消毒液アルコールと、無影灯からの放熱と、眠らない二人の医療者の吐息。


 部屋は少しくらい。


 阿羅業は重篤な患者を診る時は常に照明を昏くする。


 明るすぎる光は、弱った命には眩しすぎるのだ。


 炎琳は手を洗いながら、何度も爪先を床に押しつけていた。


 自分がいま踏んでいる床が、現実だと確認するために。


 先の闘いの血の匂いが、まだ鼻の奥に残っている。


 奥多摩の土の匂いも混じっている。


 あの森から、数十キロ、離れた都心に移動しても、あの禍々しさは脳裏から離れない。


 阿羅業は、手術着のまま立っていた。


 "外道医"と呼ばれるのに相応しい出で立ちで、彼の目は、狩場を漁る野獣の輝きを帯びる。


「……ここでやるしかねぇ」


 阿羅業が言った。声は低い。


 病院の医者は、受け入れが早い。早く受け入れないと、手が遅れる。


 治療台の上にいるのは、奥多摩で壮絶に散ったレンジャー、波多野の娘――志津子。


 七歳。


 小さな身体が、機械のケーブル、輸液ポンプの機械から延びる蛇のようなカテーテル、に囲まれている。


 子どもが配線に囲まれる光景は、誰が見ても、どこか間違っていると思う。


 間違っているが、正しい。


 医道の世界は、すべからく、そういう矛盾に満ちてている。


 炎琳は、X3000二号機の端末を立ち上げた。


 MIKOGAMI OS の表示が目を射した。


 画面の文字が淡々と並ぶ。


 "遺伝子異常配列の解析開始""照合""最適化""修復"。


 無慈悲なまでに事務的な工程が続く。


 だが、事務的な工程が命を救う。


 感情だけで治療はできない。


「炎琳」


 阿羅業が言った。


「俺たちのやることは一つだ。余計なこと考えるな」


 炎琳は頷いた。


 頷いたが、考えるなと言われて考えないほど、彼女の神経は鈍くない。


(……波多野が生きていたら)


 その思考が、皮膚の下で毒のように回り始める。


 波多野は敵だった。


 敵で、父だった。


 父で、騙されていた。


 騙されて、最後にこちらを選んだ。


 "守る"と言った。


 あの瞬間の声は、兵士の声じゃない。


 娘に向けた声だった。


(生きていてほしかった)


(たった一言……治療が始まる前に、聞かせてやりたかった)


(「間に合う」と)


 炎琳の指が、ほんの僅かに震えた。


 震えは敵だ。


 医者の指にとって震えは、致命的な敵だ。


 炎琳は呼吸を整え、震えを"工程を辿ること"で押さえ込んだ。


 画面に指を走らせる。


 X3000を起動モードへ移行させる。


 阿羅業が、志津子の手首に指を当てた。


 脈は細い。


 だが、まだある。


 "まだある"を、"あるまま"次の工程へと渡す。


 医療とは、工程、手順の運搬だ。


「……始めるぞ」


 阿羅業が言った。


 言葉の重さが、室内の空気を少しだけ沈める。


 沈んだ空気の中で、X3000が低く唸った。


 修復が始まる。


 志津子の身体は小さく跳ねた。


 痛みに対する反社ではない。


 内部で何かが"変わる"とき、人間はこういう反応をする。


 炎琳はモニターを見た。


 数字が踊る。


 染色体の異常破断点のマッピング。


 異常な配列を正常状態へと再編していく。


 毎秒2億キロダルトンの修復速度。


 まるで世界の崩れを、一本ずつ針で縫い戻しているようだった。


 阿羅業が、ぽつりと言った。


「……波多野、見ていてくれ」


 名前だけ。


 それだけで、炎琳の胸が痛む。


 阿羅業の声音には、怒りがない。


 怒りが消えたあとの、乾いた悔しさがある。


 外道医たる阿羅業は外道だが、"子ども"の前ではただの医者になる。


「俺たちがあいつを止めたのは正しい。正しいが……」


 言葉が止まる。


 正しいのに悔しい。


 正しいのに間に合わない。


 正しいのに死ぬ。


 戦場では、誰もが正しさの使い方が下手になる。


 炎琳は、画面を見たまま言った。


 声が震えないように、医者の声で。


「波多野は……救われなかった。だけど」


 一拍置く。


「彼の娘は、ここで救う。救われなかった父の分まで」


 阿羅業が、鼻で笑いかけて、やめた。


 阿羅業は、笑うとなぜか涙が落ちる。


 泣くと手が鈍る。


 医者は泣く順番を間違えられない。


「……あいつ、死ぬ間際まで"娘"しか言わなかったな」


 炎琳は答えなかった。


 答える言葉が、どれも偽物になる気がした。


 偽物の言葉は、治療室を汚す。


 汚すのは敵の仕事だ。


 X3000が、もう一段唸った。


 画面の"修復率"が上がる。


 波が来る。


 山場だ。


 ここで崩れたら終わる。

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