第90話 動き出す世界 27
闘いの空気の失せた治療室で、四騎士最後のヘルマンの遺伝子修復治療が続いていた。
闘いを終えたワジキ、ケイ、ロータ、イザベルが見守っている。
勝利宣言をあげようというではない。
"時間が稼げた"という報告だ。
龍雅は、バイタルモニターの数字を見た。
ヘルマンの数値が、最初の山を越えた。
呼吸が安定する。
脈が揃う。
体温が、ゆっくり戻る。
龍雅は言った。
「……第一フェーズ、終了」
その言葉に、治療室の空気が少しだけほどけた。
ほどけた空気の中で、ルカが、ふっと笑った。
「……見えるって、うるさいな」
笑いは、弱さじゃない。
戻ってきた証拠だ。
ヘルマンの指が、治療台の上で少し動いた。
握る。開く。
その動きが、拳ではなく"人間の手"に見えた。
イザベルは小さく言った。
「……戻ってきなさい。あなたも」
誰に向けた言葉かは分からない。
ヘルマンにかもしれないし、この場で消えかけた"人間"そのものにかもしれない。
雨はまだ落ちている。
白煙はまだ薄く漂っている。
だが治療室の中には、ひとつだけ確かなものがあった。
閉ざされていた視界が戻り、
拳がハイタッチに変わり、
そして今――
超神の男が、治療台の上で"ただの患者"になっている。
翌朝、東京にしては珍しく、やけに素直な光を落としていた。
昨夜の雨が床に残した水の筋が、窓際で細い銀に変わっている。
血の匂いは、もう強くない。消えたわけじゃない。薄まっただけだ。
汚れたものを薄めてゆく――それが、人間が「次の日」を築くやり方だ。
四騎士は、治療を終えていた。
騎士と呼ばれていた身体から、騎士という言葉が少しずつ剥がれていく。
剥がれていくのに、痛い。
痛いから、戻れる。
ルカは窓の外を見ていた。
見ているだけで、何度も瞬きをした。
視界が戻ると、世界はうるさい。
色も形も、距離も、全部が騒がしい。
失明していた時間のぶんだけ、いまの光は刺さる。
「……眩しいな」
ルカが呟いた。
ロータが、壁にもたれたまま笑った。
笑いと言っていいのか分からない。
口元が歪んだだけだ。
「眩しいのは、生きてる証拠だろ」
イザベルは二人の背中を見て、静かに息を吐いた。
彼女の手はまだ、何かを守る形のまま止まっている。
癖は、治療では取れない。
取れないほうがいい癖もある。
「……私たち、どうするの」
イザベルが言った。
声は小さい。だが芯がある。
昨夜、彼女は一度死んで、そして人間に戻った。
ロータが答えた。
「人間やるんだろ。面倒くさいほうを」
それは冗談みたいで、冗談じゃない。
人間でいることは、最も面倒な仕事だ。
痛いし、怖いし、迷うし、言い訳もする。
でも、守れる。
ルカが振り返った。
治療室の端に立っている男を見た。
御子神龍雅。
龍雅は、白衣を着ていなかった。
白衣を着ると、医者に見える。
だが今の彼は、医者でも研究者でもない。
"教会の司祭"に見えた。
「……終わったな」
龍雅が言った。
終わった、という言い方がすべてを含んでいる。
戦いも、治療も、売り物にされて穢されたた夜も。
ヘルマンは静かに、両側の橈骨静脈に挿入されたカテーテルを抜いて立ち上がった
イザベルが一歩近づいた。
「御子神……あなたは」
龍雅は首を振った。
「俺は、ここに残る。まだ終わってない。終わらせる仕事がある」
ルカが言った。
「俺たちも、残るべきじゃないのか」
龍雅はルカを見た。
その目は冷たくない。だが優しくもない。
優しさを使う場面じゃない目だ。
「残るな」
龍雅は言った。
「お前たちは、"人間として生きる"側へ行け。ここに残るとまた騎士になる。騎士に戻ったら、次は戻れない」
言葉が刃物みたいに真っ直ぐだった。
だから刺さる。
刺さるから、効く。
ロータが舌打ちした。
「……命令か」
龍雅は頷いた。
「命令だ。医者の命令は、時に道理や正義より強い」
イザベルが唇を噛んだ。
そして、頷いた。
頷きながら、目が濡れる。
涙は恥ではない。人間の証明だ。
「分かった」
イザベルが言った。
「私たちは、人として生きる」
その言葉を聞いて、治療室の扉の近くに立っていた影が、一歩だけ前へ出た。
ワジキ。
御子神剛の手による遺伝子改編人間兵器赫骸001。
兄弟ともいうべき異形。
彼は何も言わない。
言わないが、視線が語っていた。
"行け"という視線。
"戻るな"という視線。
守るために作られた拳が、いまは守るために放している。
ロータがワジキを見た。
「お前も……来るか」
ワジキは首を振った。
振り方が、乱暴だった。
乱暴な否定は、感情の出方だ。
「俺は……違う」
ワジキが低く言った。
言葉は少ない。だがそれで十分だった。
人間の世界に入るには、彼の身体は強すぎる。
強すぎるものは、世界を壊す。
人間の世界には、入れない。
ルカが、ゆっくり頭を下げた。
礼ではない。祈りだ。
「助かった」
ワジキは返事をしない。
返事の代わりに、拳を軽く上げた。
昨夜ハイタッチした拳の形。
あの小さな音が、今度は胸の奥で鳴った。
そして――ケイ。
治療室の影に座っていた獣が、ゆっくり立ち上がった。
立ち上がるときの呼吸が太い。
だが目は、もう暴れていない。
獣の中に、理性が戻ってきている。
「……終わったのか」
ケイが呟やくように首を振る。
ロータが笑った。
「終わってない。始まるだけだ。人間が」
ケイは、少しだけ口元を歪めた。
笑いかもしれない。
獣は笑い方が下手だ。
だが下手な笑いほど、嘘がない。
イザベルがケイに近づき、手を伸ばした。
触れない距離で止めた。
触れると崩れる。
今は崩れたくない。
「……ありがとう」
イザベルが言った。
ケイは頷いた。
その頷きは、犬の頷きではなく、人間の頷きだった。
そして、ルカが言った。
「また会えるか」
ワジキが答えた。
「会わない方がいい」
言葉が冷たい。
だが冷たさの奥に、熱がある。
「俺の前には闘いの道しかない。だから、もう会わなくて済むように、生きてくれ」
その言葉に、四騎士の肩が一斉に重くなった。
重いのは、責任だ。
責任は、人間の証明だ。
龍雅が扉を開けた。
外の空気が入ってくる。
ビルの空気ではない。東京の空気だ。
排気ガスと朝食の匂いと、まだ眠い人間の匂い。
人間が生きている匂い。
ルカが一歩、外へ出た。
光が刺さる。
眩しく刺さるのに、嬉しい。
その矛盾が、人間だった。
ロータが続く。
痛みを引きずりながら、それでも背筋を伸ばす。
イザベルが最後に振り返った。
治療室の天井を一度だけ見上げ、そして戻らない顔で扉を出た。
廊下の奥に、ワジキとケイが残る。
龍雅も残る。
残る者たちは、戦うために残る。
去る者たちは、生きるために去る。
ドアが閉まる。
その音は静かだった。
だが、その静けさは昨夜の無音とは違う。
闘いの前の儀式の無音ではない。
人間が人間に戻るための静けさだった。
エレベーターホールへ向かう四人の背中は、まだ騎士の影を引きずっている。
だが、その影はもう刃ではない。
影は影のまま、彼らを守る。
そしてワジキは、誰にも聞こえない声で呟いた。
妹の幻に向けて。
「……壊さない未来を、少しだけ作った」
ケイが、低く唸った。
同意の唸り。
人間の言葉に変わりかけた唸り。
ナマズ・ビルの朝は、相変わらず素直な光を落としていた。
世界は動いている。
だが今だけは、ほんの少し――
"人間が彼らの存在を脅かすものに勝った朝"だった。




