第89話 動き出す世界 26
ヘルマンが治療ベッドに横たわっている。
つい先ほどまでヘルマンが闘っていた廊下では、滝のような雨が、まだ落ちていた。スプリンクラーの人工の雨だ。
水滴が床に跳ね、白い粉と血の薄い膜をつくり、戦場の残渣を病室に近づけている。
その雨の中では――三体のTYPE-Σが……、
倒れたのではない。
敗北のポーズを取ったのでもない。
ただただ、行動を停止していた。
機械が止まるときは静かだ。
Σ-1の肩が、ほんのわずか沈んだ。
関節が支える意味を失い、体幹の重量だけが残る。
Σ-2の背面から白煙が細く上がり、冷却剤が雨に溶けた。
Σ-3は、すでに全身の回路が焼き尽き、焦げた外装の隙間から熱だけが滲み出ていた。
そして――
三体の"眼の光"が消えた。
彼らの頭部に装着されたヘッドカメラ。
殺戮ショウの客席へ繋がっていた、あの冷たい眼。
その光が、ふっと途絶える。
映像の送信が停止された。
ワジキは、動かなかった。
勝利の雄叫びを上げない。
勝っても、彼は静かだ。
妹の幻が、「壊さない未来を」と囁いた。
その囁きに従っただけだといいたげな表情で、ただ立っている。
ケイは、体毛を逆立てて肩を上下させて呼吸をしていた。
獣の呼吸。
その呼吸は、闘いに挑むために酸素を接種するための呼吸ではなく、闘いを終えて守り切ったあと、恒常性をのものだった。
目が、まだ鋭い。
それがルカの方向を見ると少しだけ柔らかくなる。
そこに残っているのが、理性だ。
病床上のヘルマンは――雨に濡れた拳を、ゆっくり開いた。
握っていたものを、放すように。
拳は戦いの形だ。
開いた掌は、生き延びた形だ。
「……終わったな」
誰に言ったのか分からない。
敵に言ったのか。自分に言ったのか。
あるいは、治療室の中で戻ってきた"視界"に言ったのかもしれない。
神の身体に別れを告げたのかもしれない。
雨が落ちる。
水滴が、三体の鉄屑の輪郭を少しずつ削っていく。
鉄は、雨に勝てない。
勝ち残った人間は雨の中でも立てる。
最後に立っていること――それが、勝利だった。
* *
ベルリン郊外。
窓のない部屋。
白いLEDの光が、机の上のグラスと契約書を冷たく照らしている。
壁一面のモニター。
そこにはさっきまで、ナマズ・ビル五十七階の映像が映っていた。
ヘッドカメラの視点。
世界中の武器商人に配信されるはずの殺戮の広告。
金の匂いのする現場。
だが今――画面は黒い。
通信エラーではない。
送信停止という、意志の断絶だった。
ハンス・バルツェクは、しばらく動かなかった。
動かなかったのは、冷静に敗北を受け入れたからではない。
怒りが、体を凍らせたのだ。
怒りの前では、筋肉は命令を忘れる。
次の瞬間、酒を冷やす氷塊が割れた。
バルツェクは椅子を蹴り飛ばした。
金属の脚が床を擦り、嫌な音が部屋に跳ね返った。
机の上のグラスが倒れ、氷が弾け、琥珀色の液体が紙の上に広がる。
ピートの香りが漂う。
「……ふざけるな!!」
怒鳴り声が、白い壁に当たって戻る。
戻ってきた声は、惨めだった。
彼自身の耳に、彼自身の敗北が叩きつけられる。
拳がコンソールに叩き込まれる。
警告灯が赤く点滅し、アラームが短く鳴って止まる。
止まる。
止まることが、いちばん腹立たしい。
止まるという現象が、今日の全てを象徴しているからだ。
「何故だ!ニュージェネレーションの技術を尽くして仕上げた、TYPE-Σが、過去の亡霊にここまでやられるとは」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
部下か。壁か。黒いモニターか。
あるいは、世界そのものか。
だが返事はない。
モニターは黒いまま。
黒いまま、何も映さない。
何も映さないというだけで、彼の権力は崩れる。
バルツェクの肩が震えた。
怒りに震えているのではない。
損失に震えている。
支配できない現場に震えている。
「……次を出せ」
喉の奥から絞り出すように言った。
「次は、もっと綺麗に――」
言いかけて、止まった。
綺麗に。
世界が死ぬ映像を。
綺麗に。
その言葉が、自分の口の中で腐った。
腐った言葉ほど、苦い。
その苦い言葉は、今のバルツエクの現実そのものだ。
彼はモニターの黒を睨みつけた。
黒は、睨み返さない。
睨み返さないから、余計に負けた気になる。
その時、部屋の片隅で、誰かの靴音がした。
静かな足音。
立ち去る足音。
さっきの高官――商談中止を告げて去った者の足音の残響が、まだこの部屋に棲みついている。
大金が逃げた。
映像が死んだ。
商品が止まった。
そして今、バルツェクの怒りだけが、部屋の中で暴れている。
だが、怒りは爆発させるだけでは何も作らない。
爆発する怒りが作れるのは、次の敵だけだ。
バルツェクは唾を飲み込み、机の上の契約書を鷲掴みにした。
紙が、握力で皺になる。
紙は弱い。
弱いものを握り潰すのは簡単だが、本当に難しいのは――あの雨の中で、まだ立っている連中を潰すことだ。
彼は、低く呟いた。
「……ナマズ・ビル」
その呟きは、執念から生まれた。
復讐でもない。正義でもない。
「古いMSOはいらん」
ただ、商売のための執念だ。
しかし――ナマズ・ビルの五十七階には、もう一つの執念がある。
金では買えない執念。
守るために、四騎士と、ケイ、ワジキが拳を開いた執念だ。
その執念が、今夜――
ベルリンの黒い客席を、黙らせた。




