第88話 動き出す世界 25
閉ざされていた視界の闇が、裂ける。
裂け方が違った。
Σの刃みたいに冷たく裂けるのではない。
朝が、夜を押し分けるみたいに広がる。
最初に入ってきたのは、白い天井だった。
非常灯の薄い光。
雨粒が残る照明カバー。
その下で、汗と血と粉塵の臭いを吸った空気が、まだ揺れている。
次に見えたのは、イザベルの顔だ。
疲れている。
疲れているのに、目だけが生きている。
生きている目で、ルカを見ている。
そして――。
廊下の向こう、治療室の入口で、背中を見せた男がいた。
ヘルマン。
拳を握ったまま、壁みたいに立っている。
雨に濡れて、白煙を浴びて、血の臭いをまとっている。
それでも背筋は真っ直ぐだ。
真っ直ぐな背中は、言葉より頼もしい。
ルカの喉が鳴った。
声が出ない。
代わりに、口元だけがほんの少し動いた。
泣きそうな笑い。
人間に戻ると、笑い方も泣き方も難しくなる。
ヘルマンが、こちらを振り向いた。
眼が合った瞬間、ルカの胸が熱くなる。
熱くなるのに、目が冷めている。
見えている。
見えるということは、世界が戻ったということだ。
「……戻ったか」
ヘルマンが言った。
短い。
短いから、全部が入っている。
よく生きたな。よく耐えたな。よく戻ったな。――全部。
ルカは頷いた。
頷くしかない。
言葉にすると壊れそうだった。
ヘルマンが、治療室の中へ一歩入った。
その一歩が、戦場から病室へ戻る一歩だった。
拳をほどく。
ほどいた拳の指先から、水が落ちた。
雨か汗か、もう区別がつかない。
そしてヘルマンは、不器用に手を上げた。
掌を、ルカのほうへ。
まるで「何かしろ」と言っているみたいに。
ルカは、半分笑って、半分泣く顔で手を上げた。
指先が触れる。
次の瞬間、掌と掌がぶつかった。
パチン。
小さな音。
だがその音は、銃声よりよく響いた。
命が繋がった音だ。
イザベルが、ふっと息を吐いた。
ロータが、壁にもたれたまま親指を立てた。
龍雅は、その光景を見て、初めてまつ毛を伏せた。
泣かない。
泣けば、次の手順が遅れる。
彼女は治療者だ。次がある。
ヘルマンはルカから目を離し、X3000の治療台へ視線を移した。
治療台の上には、まだ"冷たい神"が横たわっている。
機械の心臓。
それを動かして、人を救った道具。
ヘルマンは言った。
「次は……俺だな」
誰に言ったのか分からない。
自分に言ったのかもしれない。
あるいは、この場に残っている"世界の悪意"に向けた宣言かもしれない。
ヘルマンは、治療台に上がった。
靴のままではない。
無駄に綺麗好きという意味ではない。
"儀式"だ。
ここから先は、戦闘じゃない。治療だ。
治療の場に上がるなら、治療の流儀を守る。
彼は治療台の上に膝をつき、ゆっくりと横たわった。
呼吸を整える。
胸郭が上下し、そのたびに肋骨の痛みが遅れて追いついてくる。
痛い。
だが痛いから、まだ人間だ。
龍雅が近づいた。
治療者の距離で。
余計な言葉は言わない。
「ヘルマン。意識レベル、確認する。指、動かせるな?」
「動く」
「痛みは?」
「ある」
「それでいい」
龍雅は短く言った。
痛みがあるのは、まだ戻れる証拠だ。
痛みがなくなったとき、人は本当に壊れる。
ヘルマンは天井を見た。
天井の向こうに、まだ"客席"があるかもしれない。
兵器商人の目。
バルツェクの怒り。
世界の下品な興奮。
だが、今夜この治療室の天井の下では、別のものが勝っていた。
――目を取り戻した男の、息。
――拳で時間を買った男の、脈。
――医者の指先の、冷静。
――母親のように守った女の、静けさ。
ヘルマンは、目を閉じた。
戦うために閉じるのではない。
癒すために閉じる。
龍雅が、最後に一言だけ落とした。
「治療を始める。もう誰も邪魔させない」
それは祈りじゃない。
命令だった。
医者の命令は、時に世界より強い。
そして、X3000が再び唸った。
今度はルカのためじゃない。
ヘルマンのためだ。
闇の向こうで、何かがまだ蠢いていたとしても――。
この瞬間だけは、確かに"人間が勝った"。




