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第87話 動き出す世界 24

 ナマズ・ビル五十七階。


 Σ1の背面から、白い霧が吐き出され続けた。


 冷却回路が裂け、熱が逃げない。


 逃げない熱は、回路を焼く。


 焼けた回路は、計算を遅らせる。


 拳を飛ばす、少しでもx3000に近づけるように。


 だが、ワジキが"壁"になった。


 壁は、殴らない。


 壁は、倒れない。


 倒れない故に、殴られる。


 そしてΣ1が最後の攻撃を試みた。


 足首補正。床面摩擦。最短距離。


 しかし、床は濡れている。


 影が揺れ、センサーがずれ、熱が抜けない。


 完璧が、完璧でなくなる。


 それでもΣは前へ進もうとする。


 売り物だからだ。


 売り物は、下がると市場価値が落ちる。


 ワジキが、そこで初めて"声"を出した。


「……来るな」


 命令ではない。


 警告でもない。


 祈りに近い。


 次の瞬間、ワジキは自分の体を前へ投げた。


 Σ1の胸部へ、肩でぶつかる。


 衝突。


 進撃の行程が、ズレる。


 ズレた行程は、事故の要因になる。


 事故になった瞬間、Σ1の頭部が壁に当たった。


 カメラが、わずかに角度を失う。


 配信映像に激しくノイズが刻まれる、ヘッドカメラの画面がまた汚れた。


 Σ1の背面からも、白煙が上がり始めた。


 雨で冷えるはずのフロアで、逆に"熱"が増している。


 熱は嘘をつかない。


 嘘をつけないものは、壊れる。


 ワジキが、肩を離した。


 離した瞬間、白い霧がふわりと広がり、床の雨と混じった。


 冷媒の臭い。


 命の臭いではない。だが、命を救う臭いだ。


 ヘルマンが息を吐いた。


「……落ちる」


 Σ2の膝が、初めて沈んだ。


 沈んだが、倒れない。倒れないように設計されている。


 倒れないものは、怖い。


 だが倒れなくても、終わりは来る。


 龍雅が言った。


「治療を終えるまで、ここで踏ん張る。撤退はしない」


 誰も反対しない。


 反対する余裕がないのではなく、反対する理由がない。


 ロータが、ふっと笑った。


 笑いというより、息が漏れただけだ。


「……学者ってのは、こういうとき強ぇんだな」


 龍雅は見もしないで返した。


「強いんじゃない。決めてるだけでな」


 決めてる。


 人間の気まぐれ。


 それが、人間のいちばん厄介な武器だ。


 廊下の雨の中で、Σ1が最後の反撃を試みた。


 だが、足が滑る。


 影が狂う。


 熱が逃げない。


 行程が折れる。


 折れた瞬間、ヘルマンとワジキが同時に前へ出た。


 前へ出るというより、壁を"押し返した"。


 そして――


 治療室の奥で、ルカの脈が一段、力を取り戻した。


 たった一段。


 だが、その一段のために、誰もが骨を削っている。


 雨が落ちる。


 白煙が混じる。


 流れ落ちた血が薄まる。


 薄まった血の中で、目的だけは濃く残る。


――治療を終わらせる。


――そのために、ここで生きる。


 X3000の起動音は、心臓の鼓動に似ていた。


 似ているのに、どこか冷たい。


 冷たいくせに、嘘がない。――機械の誠実さだ。


 治療室の空気はまだ湿っている。スプリンクラーの雨が、床に薄い膜を作り、白煙と血の臭いを混ぜている。


 廊下の向こうでは、ワジキとヘルマンが"壁"のまま立っている。


 ケイの足元に頽れたΣ3は、もう商品じゃない。


 熱に負けた鉄屑だ。


 龍雅は、ルカの脈に指を当てたまま、最後の数値を見た。


 数字は正直だった。


 ここまで来れば、学者は迷わない。


「……終了」


 声は小さい。


 だがその小ささは、銃声よりよく響いた。


 イザベルが息を吸い、吐いた。


 泣きそうになって、泣くのをやめた顔だ。


 泣くと、いままで踏ん張った筋肉が崩れる。人間はそういうふうにできている。


 ロータは壁にもたれたまま、目を閉じた。


 傷口が疼く。


 疼くから、生きているのが分かる。


 生きているのが分かると、急に腹が立つ。


 腹が立つと、笑いたくなる。


 面倒だが――それが人間だ。


 ルカは、治療台の上で、ゆっくり息を吸った。


 目は、まだ閉じている。


 だが、瞼の裏で何かが動いていた。


 闇の中に、薄い光が滲み、線になり、面になる。


 ルカの指が、シーツの上で小さく震えた


 震えは痛みではない。


 "世界が戻ってくる前兆"だ。


「……見える」


 ルカが、かすれた声で言った。


 それは勝利宣言じゃない。確認だ。


 医者が患者に求める、あの一言。


 龍雅は頷いた。


 その頷きに、余計な感情が混じらない。


 混じらないから、泣けてくる。


「眩しければ、無理に開けなくていい。ゆっくりでいい」


 龍雅は治療者の声で言い、優しい手でルカの額を押さえた。


 ルカは、ゆっくり瞼を開いた。


 

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